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Meister Interview 緑 健児(Midori Kenji )

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新極真会代表理事/緑健児

株式会社協同商事 コエドブルワリー代表取締役社長
朝霧 重治

  • 朝霧 重治プロフィール
  • ダイジェスト版(読了時間5分)
  • 記事全文(読了時間15分)

株式会社協同商事コエドブルワリー・代表取締役社長
朝霧 重治


世界的に評価を受けているのは、
日本人のものづくり。

クラフトビール(CRAFT BEER)と称される、ビールがあるのをご存じだろうか? 英語で「CRAFT」とは、手工芸品・民芸品であり、クラフトビールとは、ビール職人の知識とこだわり、独自の原料や製法・技術によって造られた、手造りビールを指している。日本発のクラフトビールブランドである“COEDO”は、世界の2大ビールコンテストである、EUROPEAN BEER STAR(ヨーロピアンビールスター)、World Beer Cup(ワールドビアカップ)でそれぞれ金賞・銀賞を受賞、またiTQi(International Taste & Quality Institute/国際味覚審査機構)で、日本ブランドとして初となる、三年連続の三ツ星、世界でも7例目となる「クリスタルテイストアワード」を受賞するなど、世界中から高い評価を受けている。

“COEDO BEER”を展開する株式会社協同商事は、1975年に産地直送の有機野菜販売からスタートした会社で、“COEDO BEER”は、もともとは“小江戸ビール”という地元の地ビールブランドだった。 1994年の規制緩和((ビールメーカーの最低製造量が2,000klから60klに引き下げられた)により、全国で急増した地ビールだが、そのブームは数年で去り、様々なブランドが消えていく中で、“COEDO”が世界中から評価を受けるグローバルブランドまでに成長した。その背景には、さまざまな危機を乗り越える職人達の研究と努力、そして勝ち残りをかけ、入念に計画・実行されたマーケティング戦略が存在した。 継続か?撤退か?の判断まで迫られ、窮地に立たされていた地ビールを、世界的ブランドにまで育てた、朝霧重治氏の言葉には、経営者であり、また心からビールを愛する職人(朝霧氏は自身を職人として認めていないが)としての強いこだわりと責任感が感じられた。経営者と職人、両方のエッセンスを感じた朝霧氏へのインタビュー。ぜひご一読いただきたい。

朝霧 重治氏インタビュ-


Q:「小江戸ビール」が誕生した背景を教えてください。

当社(株式会社協同商事コエドブルワリー)は、もともと有機栽培無農薬野菜を作る農家と共に作り販売する商社であり、1975年に川越の農家と提携して、産地直送の農作物販売事業からスタートしています。当社では、化学肥料が全盛だった1970年代から、麦を緑肥として利用し、農家と連携して有機農業に取り組んできましたが、麦は対面積当たりの収穫量が低く、採算性も低いため、人口の多い関東圏に多くの野菜を作り、提供する土づくりの為の植物と考えられていて、食料品としては活用されていませんでした。そんな状況から、麦を食品に加工して、高付加価値化を図る、これが地ビール「小江戸ビール」の始まりです。

Q:いち早く地ビール市場に参入していた?

ご存知の通り、その当時は法的な規制が厳しかったため、即座にビール事業への参入はできていません。 いろいろと検討した結果、最低生産量(=規制)を超えた規模で造ればいいということになりました。とはいえ、ビールを造る素人が、いきなり大規模展開する、というのは得策ではないため、そこでまず、流通を勉強しようということになりました。ただ、当時はお酒の流通に対しても非常に多くの規制があって、酒屋や問屋の免許を取るのも容易ではなかったため、その中で取得可能な免許として、輸入の免許を取り、お酒・アルコールの輸入・販売から開始しました。

Q:規制緩和になった当時(1994年)の地ビール市場とは?

当時の地ビール市場は、ビールメーカーというより、いつの間にか観光産業になっていました。 また、そもそも地ビールという単語は存在せず、「地酒」にならって、様々なメディアで「地ビール」と言い始めて広まりましたが、もともとは「マイクロブルワリー=小規模醸造所」というのが正しい解釈です。地ビールの理想論として、その土地の麦や素材を使った個性的なビール、という考え方がありますが、原料となる麦を麦芽にする産業が未整備であったこともあり、その理念はすぐに頓挫してしまいました。また、地域経済の活性化を必要としていたことも背景にあり、より観光と結びついて、サービス産業としてスタートした企業が多かったため、お土産や地域の特産品的な取り扱われ方になっていました。当社の地元である川越は東京から少し離れた、歴史的情緒のある町として、関東の代表的な観光地であったことと、規制緩和によって、参入がしやすくなったこともあり、そもそもの目的でもあった農産物に付加価値を付ける地ビール事業は、観光地モデルで参入することになったのです。