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Meister Interview 木村 清(Kiyoshi Kimura)

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株式会社 喜代村 代表取締役社長 木村 清

株式会社 喜代村 代表取締役社長
木村 清

  • 木村 清
  • ダイジェスト版(読了時間5分)
  • 記事全文(読了時間15分)

まえがき


全国に“すしざんまい”を展開する、「すしざんまいの社長」。築地市場の初競りで、史上最高値で本マグロを落札した「マグロ大王」。両手を大きく広げたお馴染みの「すしざんまいポーズ」、そして見る人までを笑顔にしてしまう満面の笑顔。どこに居ても、ひときわ存在感を放つ木村清さんは、お寿司好きな方で無くても知っている人は多いことだろう。そんな木村清さんは現在御年64歳。マグロ大王としてのインパクトが強い木村さんだが、すしざんまいの第一号店を築地にオープンしたのは、わずか15前の2001年、木村さん49歳の時である。では、それまでの木村さんの人生はどのようなものだったのだろうか!?
詳細は、「記事本文」にて紹介しているが、木村さんの半生は、「すしざんまい」の歴史だけではとても語りつくすことが出来ない凄まじい内容だった。今回のインタビューで、お話いただいたさまざまなエピソードには、木村さんの“人としての魅力”、そして「すしざんまい」を大成功に導いた経営手腕と、すべての逆境をチャンスに変え、それを乗り越えてしまう、圧倒的な「行動力」・「負けじ魂」に満ち溢れていた。自ら創った「ざんまい流」を以て、世界中でさまざまな課題を解決。そして、日本が誇る食文化「寿司」を広げ続けている匠の言葉を、ぜひご一読いただきたい。

木村清さん インタビュー


Q:少年時代の思い出について。

少年時代の思い出で強く記憶に残っているのは、小学校に上がる前から始めていたアルバイトです。私の実家は江戸時代から続く旧家で、私も何不自由なく育てられていた“らしい”のですが、物心がつくかつかないかという時(4歳になる直前)に、交通事故で父が亡くなり、母は女手一つで3人の子どもを育てながら、借金を返済する生活を余儀なくされました。母はそんな状況にありながらも、「先祖代々受け継いだ土地は一反歩たりとて減らすわけにはいかない」との考えのもと、自分達でしっかり稼いで借金を返す!と覚悟を決め、また「五体満足でいられるのだから、そのことに感謝できる人間にならないといけない」と、いつも私たちに言って聞かせました。そんな母を助けるため、小学校に上がる前から、1日2反(600坪)の畑を耕し、600円の小遣いをもらい、うさぎやニワトリを育てては売り、卵も売りました。秋にはイナゴ捕りをして、1キロ300円で買い取ってもらい、ビール瓶や一升瓶を回収、きれいに洗って酒屋に買い取ってもらうなどして、一生懸命家計を助けました。小学校2年からは新聞配達も始め、これは中学を卒業するまで続けました。そして小学校三年生からは、同級生の父親が支配人をやっていたゴルフ場でキャディのアルバイトも始めました。力道山もやってくるような名門クラブで、これが大きな“収入源”となりました。小学生になぜそんなことが出来るのか?と疑問に思う人もいるかもしれませんが、戦後の貧しい時代には、働いて家計を助ける子供は珍しくはなかったのです。「働く」ということはどういうことなのか?私はこのような少年時代のアルバイト経験を通して、一つ一つ学んで行きました。

Q:戦闘機「F-104」のパイロットという夢

父の葬式の最中、みんなが泣いているところにいたくなくて、私は外に出ました。ふと空を見上げた時に飛んで行った、真赤な戦闘機「F-86セイバー」に魅了されたことがそのきっかけです。その機体のかっこよさが脳裏に刻まれ、子供心に「将来、パイロットになりたい」と思ったことを覚えています。私は中学校三年生の時には、五教科で学年一番の成績を取るほど成績が良く、地域で最優秀・県内でも屈指の進学校に入学できると言われていましたが、高校に通える環境ではなかったため、先生のアドバイスもあり、自衛隊に入隊することを決意しました。埼玉県熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊です。当時15歳、過酷な航空自衛隊生活の始まりです!

Q:5年9ヶ月の過酷な自衛隊生活

今の若い人には想像できないかもしれませんが、当時の教官や大隊長は、第二次大戦を生き抜いた人達で、体罰なんて当たり前。朝6時の起床、ラジオ体操から始まり、腕立て伏せ、歩伏前進、銃剣道に空手など、訓練は筆舌に尽くしがたいほど厳しいものでした。おかげで、入隊して1ヶ月半で腕立て伏せが1000回できるようになりました。途中で地面に腹がついたり、新人100人のうち、1人でも駄目だったら最初からやり直しです。軍歌も1番~30番くらいまで覚えさせられるのですが、教えてもらえるチャンスは就寝時間の前に先輩が唄う一回だけ。それで唄えないと、翌朝に1.5キロをダッシュで走らされます。少しでもペースを落とすと「遅い!」と怒鳴られ、またやり直し、だいたい5回くらい走らされます。人間とは不思議なもので、そんな過酷な状態が毎日のように続くと、ある時から1000回の腕立て伏せも、何十キロを走るのもそれほど苦しくなくなり、また先輩が唄った歌が、すべてパッと頭に浮かんでくるようになってくるのです。人間は極限状態になると、ものすごい力を発揮することを実感しました。

Q:交通事故、初めての挫折

航空自衛隊に入って4年目、三等空曹の時のことでした。ある日、三重県津市の笠取山分屯基地に向かって走っていた時、カーブのきつい道路で突然トラックが現れ、荷台に積んでいた信管が落ちてきて、頭に怪我を負いました。その影響で目の調整力が低下してしまい、パイロットの夢を断念せざるを得なくなったのです。「運命は過酷だ。」と己の不運を嘆き、失意の中で5年9ヶ月間お世話になった自衛隊を退官することを決意したのです。

しかし、この交通事故には「不幸中の幸い」がありました。
事故の後に入院した三重の樋口病院で担当してくれた看護婦さんと親しくなり、

やがてその女性が生涯の伴侶となってくれたのです。

1974年6月に私たちは結婚しました。

Q:バイト生活に突入。そして築地へ。

自衛隊の人間は訓練の過酷さから、退官することを冗談交じりに「娑婆に出る」と表現します。20歳で“娑婆”に出た私は、それまでの給料や預金の利息で株式に投資をしてみたり、モーテルの経営を本気で考えてみたり、ある人に貸したお金が返って来ずに、再び目標を失ったり、司法試験への挑戦や、学費を稼ぐために百科事典の訪問販売のアルバイトをしてみたりと、色んなことをやってみました。
結果として、大洋漁業(現、マルハニチロホールディングス)の子会社、新洋商事でアルバイトとして働き始めます。その時の私には想像もできませんでしたが、これが水産業界との長いご縁の始まりです。

Q:独立し、喜代村の前身となる「木村商店」を設立、90以上の事業を展開

新洋商事では、「商品価値がない」と捨てられていた、小さな魚の切り身をスライスして売ったり、イカの耳をすり身にして売ったりと、「どうしたら売れるか」「どうしたら人に喜んでもらえるか」そればかりを考えていました。そして何かを思いついたらすぐに実行しました。ひとつ成功すると、そこからヒントを得て、さらにアイディアが浮かんでくる。毎日この繰り返しです。当時はちょうど冷凍食品が流行始め、冷凍食品を使った病院食や給食、居酒屋向けの食材・メニューが当たり、売れに売れました。新たに提案した、大箱でたくさんのメニューを出す居酒屋(今では主流の大型居酒屋の走りのようなお店)経営も成功するなど、どんどん結果に繋がり、商売の面白さにハマっていきました。



しかし、出る杭は打たれると言うことでしょう。当時の会社組織の中で“やりすぎ”てしまったのか、2年9ヶ月で新洋商事を離れることになり、その後独立しました。1979年、27歳のことです。

「今あるものより、いいものを提供する。自社で開発する。」をモットーに片っ端から事業に着手しました。寝る間も惜しんで、水産物のパック売り、弁当屋、海外生産、マグロの輸入、市場初となる温かい弁当の販売から、レンタルビデオ店、ビリヤード場、カラオケ店、コンテナでスナック経営、不動産事業まで、90以上にもおよぶ事業を展開することになります。