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Meister Interview 木村 清(Kiyoshi Kimura)

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株式会社 喜代村 代表取締役社長/木村 清

株式会社 喜代村 代表取締役社長
木村 清

  • 木村 清プロフィール
  • ダイジェスト版(読了時間5分)
  • 記事全文(読了時間15分)

木村清さん インタビュー


Q:戦闘機「F-104」のパイロットという夢

父の葬式の最中、みんなが泣いているところにいたくなくて、私は外に出ました。ふと空を見上げた時に飛んで行った、真赤な戦闘機「F-86セイバー」に魅了されたことがそのきっかけです。その機体のかっこよさが脳裏に刻まれ、子供心に「将来、パイロットになりたい」と思ったことを覚えています。私は中学校三年生の時には、五教科で学年一番の成績を取るほど成績が良く、地域で最優秀・県内でも屈指の進学校に入学できると言われていましたが、高校に通える環境ではなかったため、先生のアドバイスもあり、自衛隊に入隊することを決意しました。埼玉県熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊です。当時15歳、過酷な航空自衛隊生活の始まりです!

Q:5年9ヶ月の過酷な自衛隊生活

今の若い人には想像できないかもしれませんが、当時の教官や大隊長は、第二次大戦を生き抜いた人達で、体罰なんて当たり前。朝6時の起床、ラジオ体操から始まり、腕立て伏せ、歩伏前進、銃剣道に空手など、訓練は筆舌に尽くしがたいほど厳しいものでした。おかげで、入隊して1ヶ月半で腕立て伏せが1000回できるようになりました。途中で地面に腹がついたり、新人100人のうち、1人でも駄目だったら最初からやり直しです。軍歌も1番~30番くらいまで覚えさせられるのですが、教えてもらえるチャンスは就寝時間の前に先輩が唄う一回だけ。それで唄えないと、翌朝に1.5キロをダッシュで走らされます。少しでもペースを落とすと「遅い!」と怒鳴られ、またやり直し、だいたい5回くらい走らされます。人間とは不思議なもので、そんな過酷な状態が毎日のように続くと、ある時から1000回の腕立て伏せも、何十キロを走るのもそれほど苦しくなくなり、また先輩が唄った歌が、すべてパッと頭に浮かんでくるようになってくるのです。人間は極限状態になると、ものすごい力を発揮することを実感しました。

Q:交通事故、初めての挫折

戦闘機のパイロットになるために入った航空自衛隊ですが、来る日も来る日も腕立て伏せばかり。そこで先輩に「いつになったら、飛行訓練ができるんですか?」と聞くと、先輩はあきれ返った表情で、「俺達は乗れないよ。だって俺達はトンツー(通信兵)だもん。」とこう言われました。後から聞いて分かったのですが、入隊させるために、新人全員に「君たちはF-104に乗れる」と言っていたのだそうです。パイロットになるためには、大学に入学し、航空機の操縦学生になる必要がありました。私はより早く資格をとるため、自衛隊で働きながら猛勉強し、二年半で競争率30倍とも言われる大学入学資格試験検定に合格しました。それにより、空曹候補生の資格を得たはずでしたが、それでも「前例がない」という理由でパイロットの部署ではなく、コンピューターを扱う部署に回されてしまいました。



いつかチャンスが巡ってくる!と信じ、パイロットになるために朝晩10キロほど走って身体を鍛えていた時のこと。航空自衛隊に入って4年目、三等空曹の時のことでした。ある日、三重県津市の笠取山分屯基地に向かって走っていた時、カーブのきつい道路で突然トラックが現れ、荷台に積んでいた信管が落ちてきて、頭に怪我を負いました。その影響で目の調整力が低下してしまい、パイロットの夢を断念せざるを得なくなったのです。「運命は過酷だ。」と己の不運を嘆き、失意の中で5年9ヶ月間お世話になった自衛隊を退官することを決意したのです。

しかし、この交通事故には「不幸中の幸い」がありました。
事故の後に入院した三重の樋口病院で担当してくれた看護婦さんと親しくなり、
やがてその女性が生涯の伴侶となってくれたのです。
1974年6月に私たちは結婚しました。