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Meister Interview 木村 清(Kiyoshi Kimura)

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株式会社 喜代村 代表取締役社長/木村 清

株式会社 喜代村 代表取締役社長
木村 清

  • 木村 清プロフィール
  • ダイジェスト版(読了時間5分)
  • 記事全文(読了時間15分)

木村清さん インタビュー


Q:金を貸した人に逃げられ無一文、バイト生活に突入

自衛隊の人間は訓練の過酷さから、退官することを冗談交じりに「娑婆に出る」と表現します。20歳で“娑婆”に出た私は、それまでの給料や、預金の利息68万円で株に投資しました。証券会社の担当者には止められましたが、二ヶ月半くらい経った頃に新聞を見たら、購入した株がなんと275万円に増えていて、直ぐに全部売りました。75万円はパ~ッと使ってしまいましたが、残りの200万円で何をするかを考えました。その当時、モーテル経営に興味があった私は銀行に相談し、田舎で26棟くらいを経営している方を紹介してもらいました。ベッドメイキング・清掃などの仕事を自衛隊で経験していた私は、社長に気にいられ、しかも社長自身が最初に手掛けた六階建てのモーテルを300万円で譲ると言ってくれたのです。「これは投資すべきだ」と考えた私は実家に帰り、足りない分の100万円を母に借りに行きましたが、「貸すよ。けれど、もううちの敷居はいっさい跨ぐな。モーテルをやらすためにお前を育てたんじゃない。」と言われました。母を悲しませてしまったことを痛感し、モーテル経営は断念しました。では、その200万円をどうしたのかというと、ある人から頼まれて、お金を貸したらそれっきり。お金が返ってくることはありませんでした。私は、再び目標と共にお金も失いましたが、ある先輩から「今できることを精一杯やれよ」との励ましを受け、司法試験に挑戦することを決めました。

Q:百科事典の訪問販売で商売の魅力を知る。そして築地へ。

学費を稼ぐため行ったいくつかのアルバイトの中で、とりわけ印象に残っているのが、百科事典の訪問販売です。勇んで販売を始めたのですが、1ヶ月半はどうやっても全く売れませんでした。団地に行っても戸建てに行っても全くダメ。訪問件数を倍々で増やしても駄目。周りの同期も同じです。少ない固定給+出来高払いでは、まったく収入にならず1ヶ月後には2人しか残りませんでした。そんなある日、コッペパンを買うお金さえなく、もう諦めようと思い公園のベンチで売れない百科事典を見つめていた時のこと。近くで遊んでいた子供達がのぞきに来て、色々と質問をしてきます。それに答えて、子供達と問答を続けていると、子供たちの母親もやってきました。そしてなんと「購入したい」という方が現れたのです。「これはサンプルですので、ホンモノをお持ちします。」と、翌日会社から持参して駆けつけたところ、「購入したい」という近隣の奥さまが6~7人も集まっていました。これにはビックリです。これを機に、母親たちの間で評判になり、注文が相次ぎました。結果、1ヶ月半でなんと500巻以上も売れる新記録を達成しました。この経験は非常に貴重なもので、「モノを売る」ことの意味を学びました。「売ろうとしても売れない、商売はいったいなんなのだろう」と真剣に考えるきっかけにもなり、商売の魅力に引きこまれました。ただ、せっかく売れるようになったこの仕事も、会社から適当な理由を付けられて、給料は据え置かれてしまったため、頑張る甲斐がなくなり、他の道を探すことにしました。

職安を訪ねた私は、大洋漁業(現、マルハニチロホールディングス)の子会社、新洋商事でアルバイトとして働き始めます。その時の私には想像もできませんでしたが、これが水産業界との長いご縁の始まりです。

Q:独立し、喜代村の前身となる「木村商店」を設立、90以上の事業を展開

新洋商事では、「商品価値がない」と捨てられていた、小さな魚の切り身をスライスして売ったり、イカの耳をすり身にして売ったりと、「どうしたら売れるか」「どうしたら人に喜んでもらえるか」そればかりを考えていました。そして何かを思いついたらすぐに実行しました。ひとつ成功すると、そこからヒントを得て、さらにアイディアが浮かんでくる。毎日この繰り返しです。当時はちょうど冷凍食品が流行始め、冷凍食品を使った病院食や給食、居酒屋向けの食材・メニューが当たり、売れに売れました。新たに提案した、大箱でたくさんのメニューを出す居酒屋(今では主流の大型居酒屋の走りのようなお店)経営も成功するなど、どんどん結果に繋がり、商売の面白さにハマっていきました。



しかし、出る杭は打たれると言うことでしょう。当時の会社組織の中で“やりすぎ”てしまったのか、2年9ヶ月で新洋商事を離れることになり、その後独立しました。1979年、27歳のことです。
「今あるものより、いいものを提供する。自社で開発する。」をモットーに片っ端から事業に着手しました。寝る間も惜しんで、水産物のパック売り、弁当屋、海外生産、マグロの輸入、市場初となる温かい弁当の販売から、レンタルビデオ店、ビリヤード場、カラオケ店、コンテナでスナック経営、不動産事業まで、90以上にもおよぶ事業を展開することになります。どの事業もそれまでに無かったものばかりだったため、進めて行くうえでさまざまな障壁が立ちふさがりましたが、自衛隊時代に叩き込まれた「負けじ魂」のおかげで、負けずにやれたと思っています。若い時にとことんまで必死になって、取り組んだことは、やがて自分の身になり、武器になります。私自身、そういう経験をたくさんすることができました。

Q:バブルの崩壊/メインバンクの裏切り/会社清算

今から二十数年前、バブル経済が弾けた時、私はメインバンクに裏切られました。バブル当時、総額で百数十億円の借入金がありましたが、バブルが弾けると「返してくれ」と言ってきたため、残り数千万円になるまで返済をしていた時のことです。当時すでに中国でのビジネスに着手していた私は、別の銀行に融資の相談に行ったところ、「木村さんはブラックリストに乗っているので、お貸しできません。」と言われ、驚きました。詳しく事情を聞くと、元金も金利も払っていない融資先として、リストに載っています。しかも「整理回収機構行き」。 よくよく調べて、ひどい真相が判明しました。メインバンクが返済中の融資金と、新たな借入金の一括返済を求めて来ていたのです。私はそんな要求があったことさえ知らず、しかもわざわざ私が海外にいる時に、女房に手形の書き換えと偽って、一括返済の書類にサインをさせる!という、とんでも無く酷い手口でした。その「一括返済」の文言は、何センチもある分厚い書類の束の中にほんの小さな字で書かれています。
私たちはたちまち、人生最大のピンチを迎えてしまいました。



長い付き合いのあった銀行の仕打ちに、怒りよりもむなしさを覚え、また苦楽を共にしてきた女房を泣かせてまで続けるものではない、と考え、事業の整理を始めました。独立を志望する者には独立させ、パートナーや友人にも集まってもらい、事業をそれぞれ引き取ってもらいました。

Q:仲間達からの寄付!どん底からの再出発について

そんなある日、私は仲間達に誘われてゴルフをしました。楽しくラウンドを回っていると、女房から連絡があり、「知らない人からお金がバンバン振り込まれてくる」と言います。始めは何かの間違いかと思いましたが、真相はゴルフを楽しんでいた仲間達みんなが、「木村さんのマグロの夢のために使ってほしい」と、寄付をしてくれていたお金だったのです。額にして数百万円。しかも借用書もなにも要らないというのです。これは涙が出るほどうれしかった。仲間から預かったお金でアイルランドに向かいマグロと格闘。釣れたマグロは応援してくれた人たちへ振る舞いました。

事業の清算後は、しばらくは女房とゆっくり過ごそうと考えていましたが、
「いい仲間がいるんだから、事業を続けてよ。おとうさん!」と言ってくれ、再起を決意しました。
たくさんあった事業を清算し手元に残ったお金は300万円。そのうちの200万円を使って、わずか10坪/およそ18席の寿司屋を創りました。回転ずしよりも高品質で低価格、そして一般の寿司屋よりも明朗会計。「良いネタをどこよりも良心的な価格でお客様に提供する」がコンセプト。これこそが、すしざんまいの前身となる「喜よ寿司」の始まり。1997年のことです。

Q:そして2001年、すしざんまいが誕生

おかげさまで「喜よ寿司」は、多くのお客さまに支持され、たちまち行列ができる人気店となりました。そして2001年の4月、「築地を元気にする」という目的で、すしざんまいの第一号店が誕生します。場所は築地場外市場のど真ん中!やるからには、今までに無かったお寿司屋さんを創ろうと、業界初の24時間営業・年中無休と、「入りやすさ、食べやすさ、質の高い接客」を実現するために、さまざまな挑戦をしました。おかげさまで、たちまち「行列のできる店」と呼ばれるようになり、大成功を収めることができました。わずか35坪・40数席のお店が年間10億円の売上げを記録したのです。その後、お客様からのご要望もあり、繁華街にも出店を開始しました。ですが、出店目標は持たず、出店のペースも決して急ぎません。「常に満席&行列の出来るお店」を目指して、24時間営業・年中無休を支える、きちんとした人材と開店資金が揃うまで出店しないからです。そして、じっくりと見極め、決断したら「一気呵成」に出店します!また、2010年に地方一号店となった「福岡天神」をはじめ、日本全国にある地方店では、「日本全国に築地の味をお届けしたい」との想いから、どの土地でも敢えて「築地スタイル」で展開しています。各地の食文化との違いでお客様から厳しいご意見をいただくこともありましたが、スタイルを貫くことで徐々に築地のスタイルが評価され、受け入れていただけるようになったのです。