株式会社 山本海苔店 専務取締役
山本 貴大(前編)/「おいしい海苔をより多くのお客さまに」

0Like&Share

Facebook

LINEで送る

「おいしい海苔をより多くのお客さまに」
品質貫く老舗を新たな時代へ導く

「海苔店」のなかには海苔以外の食品を扱う企業も多いが、品質にこだわりながら“海苔ひとすじ”を貫いてきたのが、1849年創業の「株式会社 山本海苔店」だ。用途に合わせて品質ごとに商品化する手法を生み出し、今では当たり前のように食べられている「味付け海苔」を考案するなど、パイオニア的な存在として海苔業界を牽引してきた老舗である。

革新をもたらす一方で、「適正価格」と「品質主義」という伝統を一貫して守り続け、百貨店を中心に良質な海苔を販売してきた。しかし、百貨店の市場が縮小するにつれて売上は徐々に低迷してきた。営業本部長と管理本部長を兼任する山本貴大専務は、その状況を打破するため、時代に合わせ老舗企業を進化させようと奮闘し、その成果は30年ぶりの年間売上増加という形で実を結んでいる。

山本専務へのインタビュー前編は、海苔業界に大きな革新をもたらしてきた山本海苔店の歴史や、“百貨店のなかで取り残されてしまっていた”という老舗を変えるために新たに設けた経営理念について伺いました。

山本 貴大さん インタビュー


――老舗である山本海苔店が、海苔業界の歴史にどのような影響を与えてきたか教えていただけますか?

一つ目の大きな取り組みは、1858年に襲名した二代目山本德治郎が、自家用、進物用、あるいは原料用、業務用など、ニーズに合わせて海苔を8種類に仕訳(しわけ)をしたことです。これが最初の大きな変革でした。それまでは海苔を「海苔」としてそのまま売る形態しかありませんでしたが、「この海苔はお寿司用です」「こちらはお蕎麦用」と銘打つことで、「山本海苔店に行けば専用の海苔がある」と認識されお客さまが足を運んでくれるようになりました。今で言う“卵かけご飯専用の醤油”のようなものです。ニーズに対して的を絞って訴求する販売方法を、江戸末期から取り入れていたことになります。この頃から、海苔店としての実力がついてきました。

――「味付け海苔」も二代目の時代に生まれたそうですね?

これは明治時代1869年のことでした。明治天皇が京都へ還幸の際、何か良い東京土産はないかと探されていた時に、「東京の人気ある海苔屋さん」として知られてきていた山本海苔店に白羽の矢が立ちました。面白い土産を作ってくれないかというご要望をいただいて、考案したのが味付け海苔でした。

そのきっかけとなったのが、後に明治天皇の侍従長になった山岡鉄舟ではないかと伝えられています。勝海舟、高橋泥舟と合わせて江戸の三舟と呼ばれた歴史上の人物です。二代目は坂本龍馬らが通った千葉周作の道場で剣術を学んでいて山岡と剣友だったため、彼を通じて明治天皇から命をいただいたのではないでしょうか。

海苔業界の歴史においてはいくつかのイノベーションがあり、その一つ目、非常に大きかったのが「板海苔」になったことです。海苔は縄文時代から食べられていたはずですが、板状になったのは18世紀、江戸時代の中期頃のことで、まだ新しい食文化だといえます。それに次ぐ、2つ目のイノベーションが味付け海苔だと言えます。

もう一つ挙げるとすれば、これは現代のことですが、40年ほど前に山本海苔店が「おつまみ海苔」という商品を開発したことです。海苔は副食とでも言いましょうか、おにぎりに巻くものであったり、お蕎麦にかけるものであったり、主食ではありませんでした。海苔をメインに食べていただくおつまみ海苔は、味付け海苔のパイオニアとして、海苔の新しい食べ方を提案できた商品だと考えています。

――業界において大きな革新をもたらしてきた老舗を継ぐことに関して、プレッシャーはありませんでしたか?

家業を継ぐことは小さい頃から意識していましたが、父からは山本海苔店を継げと言われたことは一度もありませんでした。一方で、母方の祖父や祖母からすれば、「娘は大変な家に嫁いだ」というプレッシャーがあったようですが、祖父、祖母とのコミュニケーションのなかで後継ぎとしてしっかりしなくてはならないと自然に考えるようになりましたし、私自身はプレッシャーを感じることもありませんでした。

山本海苔店のリーダーになることは決まっていましたので、就職活動の際には商売を学ぶなら商社、経営を学ぶならコンサルタント、お金の流れを知るなら金融機関だろうと3つに絞りました。就職活動をするなかで「商売や経営は他の人に任せることができるが、経営者に必要なのはリスクを察知する能力だ」というアドバイスをもらったことで、銀行に決め4年間勤めました。

――銀行に勤めた後、山本海苔店に入社された当時の社内をどのように感じましたか?

現在は変わってきていますが、山本海苔店には、社員に業績を見せないという方針があり、取締役になり、初めて決算書を見た時にひどくショックを受けました。売上はバブル期に向けて増加し、最高売り上げを達成して以降30年にわたって、毎年1~2%ずつ減少してきました。百貨店が大半を占める事業から、スーパーに進出するための部署や海外事業室を作り、ネットにも展開してきましたが、もともと売上の8~9割が百貨店でしたし、百貨店の市場規模が10兆円から5兆円に減ってしまった影響をそのまま受けたような数字です。

入社して以降、人前でお話しする機会をいただくことが多かったので、山本海苔店を研究してみると、「適正価格」と「品質主義」という2つの行動指針はありましたが、「経営理念」がないことに気が付きました。経営理念がないこと自体は悪いことではなく、経営理念を作らない方針で進めてきただけなのですが、新しい業態にチャレンジするためにも、経営理念を作ることに決めました。

社員全員で意見を出し合いながら決めたのが「よりおいしい海苔を、より多くのお客様に楽しんでいただく」という経営理念です。山本海苔店は1950年代から、百貨店という市場で、お中元お歳暮を中心とした高価格な海苔を販売する、というマーケティングスタイルをとってきました。

確かに百貨店の存在は、「山本海苔店が高品質の海苔を販売している」とお客様に感じていただく大きな要因の一つではありましたが、だからといって「百貨店だけ」にこだわる必要はないのです。我々はおいしい海苔を多くのお客さまに楽しんでいただきたいんだという気持ちを確認できたことで、次のステップに進めたと考えています。

――入社後に実行された改革は?

何かを変えようと社員に投げかけるよりも、最も説得しなければならない存在は社長でした。社長が新しい市場・会社の流れに真正面から反対することはなかったのですが、社員は社長をよく見ていて、社長の言葉の語尾、表情、しぐさなどから新しい流れについて反対していることを敏感に読み取ります。例えロジック的に正しかろうとも、社員本人が納得していようとも、社長が反対している可能性があることは絶対に前に進みません。これは社員よりまず社長にご理解いただけなければと徹底的に社長と話をした時期がありました。その機会を設け、社長に新しい市場の流れ、戦略、戦術を理解してもらえたことで、社員が自信をもって動けるようになりました。そして長年にわたり下がり続けていた売上が30年ぶりに前年を超える数字を達成することができました。

取り組んだことの一つに、お土産商品の充実が挙げられます。私たちは長年、中元や歳暮を中心とした高価格商品を百貨店で販売してきました。店頭に並んでいたのは5000円や7000円の焼海苔、味付け海苔です。しかし中元・歳暮という進物市場の売上は低下しており、一方でギフト市場全体は増加傾向にありました。そこで当社の百貨店担当者に、5000円以上の進物商品を1日に何人が買っているのか、周囲のお菓子屋さんでは何が売れているのか、誰が何のための商品を求めているのかを考えようと呼びかけたのです。百貨店の中で中元歳暮用の高価格帯の商品を販売しているのは我々だけで、周りの洋菓子店は、中元歳暮以外の手土産、パーソナルギフト、ハロウィン、敬老の日、こどもの日など多くのオケージョンに敏感に対応していました。

それを機に、お土産としてお求めいただけるよう、1000~2000円の価格帯の商品を充実させていきました。そうなると「百貨店だけでなく空港や高速道路のサービスエリアでも売っていきましょう」と販路にも変化が出てきます。“いままではこうだった”と縛られることなく、時代に合わせた適切な商品、価格帯、売る場所、プロモーションを考え直すことで成果を生み出すことができたと思っています。

<記者:平澤 尚威>

"日本の匠に尊敬と感謝の思いを込めて" - Grateful JAPAN

フォローしてSNSで最新情報をチェック >>

Facebook

LINEで送る