株式会社船橋屋 八代目当主・代表取締役 
渡辺 雅司(前編)/創業214年!変化し続ける老舗くず餅店が描く未来

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『多様な人材を未来に繋ぐ組織』
創業214年!変化し続ける老舗くず餅店「船橋屋」が描く未来

東京・亀戸、東の天満宮として親しまれる「亀戸天神」の参道では、1805年創業の老舗和菓子店が、創業以来の伝統の味と、江戸後期を想わせる風情ある佇まいで、今もなお多くの人々を惹きつけている。江戸固有の和菓子、「くず餅」の老舗「船橋屋」だ。船橋屋のくず餅は、小麦粉の澱粉質と天然水を使用し、450日もの間、乳酸発酵させたあと、職人たちが見極める最適なタイミングで蒸し上げ完成する。これだけの時間と多くの手間を掛けているにも関わらず、店頭に並んでからの消費期限はわずか2日間。最高品質の小麦澱粉が生み出す澄んだ乳白色、やわらかく歯触りの良い食感、そしてヨーグルトのような香りを守るためには、この“時間”と“タイミング”が最も大切と考えているからだ。厳選された大豆で作る香り高い“きな粉”と、沖縄産の黒糖をベースに作られた“秘伝の黒糖蜜”が、創業以来変わらないくず餅の味をさらに引き立てる。

天然素材のみで作られ、素朴で美味しい和菓子として人々に愛されてきたくず餅は、近年健康にも良い「発酵和菓子」として一躍注目を集めている。それを世間に知らしめたのが、八代目当主・渡辺雅司社長だ。今から25年前(1993年)に、大手都市銀行の銀行マンから転身して家業を継ぐと、未来を見据えた経営改革を推進し続け、旧態依然だった船橋屋の体質を根底から改善しただけでなく、直近6年間の経常利益を5.8倍にまで押し上げた。さらに、新卒の入社希望者がピーク時には1万人を超える人気企業へと変貌させたのだ。渡辺社長は、創業以来変わらない、くず餅の品質と製法を守りながら、船橋屋をさらに飛躍させるための挑戦を常に模索している。

全2回でお送りする前編は、渡辺社長が幼い頃から見てきた船橋屋の歴史や、暖簾を守り抜いてきた先代の苦悩、企業として飛躍するために実行してきた改革の内容などについて語っていただいた。

渡辺 雅司さん インタビュー


Q:今年で創業214年。船橋屋のこれまでの歩みについて教えてください。

船橋屋には、「暖簾は血よりも重い」という言葉があります。僕は七代目の父の“実子”で八代目ですが、実は船橋屋ではおよそ百年ぶりの「家付き当主」です。五代目の曽祖父は、当主としての仕事をほとんどしないまま30歳の若さで亡くなってしまい、六代目だった祖父には長男がいましたが、その長男には跡を継がせず、私の父を養子に迎えて七代目に指名したのです。「暖簾は血よりも重い」という言葉は、“実の子を切ってでも、相応しい者に跡目を継がせ、暖簾を守らなければならない”という、ある意味「究極」ともいえる船橋屋の掟なのです。この掟のもとに代々暖簾が受け継がれてきたため、僕の前の「家付き当主」となると、明治の時代まで遡ることになります。

そんな厳しい掟を聞くと意外に思われるかも知れませんが、船橋屋は創業以来ほとんど変わることなく、くず餅ひと筋に、真っすぐに、続いてきた会社です。ただし、創業した1805年以降の日本は、まさに激動の時代でした。江戸幕府が終わり、明治維新、民主主義の発展、そして世界大戦の勃発。戦後の高度成長期に生まれた僕たち世代は、うなぎ上りの好景気とその後のバブル崩壊までを社会人として経験しました。そうしたさまざまな時代背景がありながらも、父を含め、代々の当主は堅実な経営を続けてきたため、時代の波に流されることなく、創業以来の商売を守り、続けてくることが出来たのです。

Q:渡辺社長がお生まれになった1964年、船橋屋はどのような状況だったのでしょうか。

僕が生まれた1964年は東京オリンピックが開催された年です。日本が戦後の混乱から立ち直り、高度経済成長期に入って、大きく自信を取り戻している頃でしたので、黙ってても拡大していく経済のなかにいました。船橋屋も亀戸を中心とした展開から、大手百貨店への出店など、徐々に拡大を計画していた時です。ですが、当時の船橋屋にはまだ「工場」というものが無く、一枚一枚“せいろ”で蒸しながら、くず餅を作ってる状態でしたので、「企業」というより「家業」です。それからおよそ15年後に工場が出来るまでは、なかなか大量生産ができず、午後の2時~3時になるとお店を閉めてしまうような状態でした。

現場はまさに、昔ながらの“職人ありき”といった状況で、職人の気分や、鶴の一声で物事がドーンと決まってしまう、周囲の従業員たちもそんな職人に委縮してしまっているような状況だったと思います。景気が良い時はそれでも売上が減ることはありませんでしたが、そんな商売のやり方ではいつまでもお客さまはついて来ない。僕自身も社会人になり、実家である船橋屋を、「家業」から「企業」へと変革させる必要性を強く感じるようになります。7年間の銀行勤めを経て、船橋屋に入ってからひとつひとつ「企業」への変革を進めていきました。

Q:大学を卒業後、銀行に入られたのは、家業を継ぐことを視野に入れていたのでしょうか?

学生時代から、「ディーリングの仕事をやりたい!」という強い想いがあり、当時の僕に「家業を継ぐ」という意思はありませんでした。銀行に勤めたのは1986年~1993年の7年間ですが、今振り返ってもものすごい7年間だったと思います。円高不況から始まり、バブル景気が来て、その後のバブル崩壊まで、まさにジェットコースターです。ダイナミックに感じた反面、銀行は積極融資から徹底回収へと態度を一変。目先の利益に目がくらんで商売をしていた人たちが、破産してしまったり、いつの間にかどこかへ消えてしまうなど、お金に対する人間の弱さというものも痛感しました。

そんななか、家業を継ぐことを考えたのは、「やはり、ものづくりが日本の原点」と振り返ったことが一つ。そしてもう一つは、祖父の死を機に、「父を支えたい」という想いが芽生えたことです。暖簾を守るために、実の息子ではなく、父を養子に迎え入れた六代目の祖父が病に倒れた時、病床でうなされている声を聞きました。その時に、自分が追い出した長男のことを言っていたのです。

Q:その時に初めてご祖父の本心を聞いた?

それまでは、「祖父はなんてひどいことをしたのだろう」と感じていましたが、暖簾を守ることの厳しさ・大切さ、そのために自ら十字架を背負ったことを感じました。本当に亡くなる間際まで、長男への想いを語っていたのを見てショックを受けましたし、そこに親の本心を見て、やはり実子が“継ぐべき人間”になって、実際に継ぐことが重要であると考えたのです。

Q:渡辺社長が入社された1993年の船橋屋

バブルが崩壊し、右肩あがりの時代は終わろうとしていましたが、下町はそういった経済状況に気付くのが遅いのです。僕は大きな危機感と、会社を変革させる必要性を強く感じていましたが、現場は旧態依然の職人世界。「今がよければ良い」といった風潮で危機感などまるでありませんでした。そして職人はみんな、パンチパーマやアイパー、角刈り、アフロ、茶髪。本来、髪型など大きな問題ではありませんが、みんな強面で、けっしてガラも良くありません。おまけに「俺たちが居なくなったら、美味いくず餅を作れない」と、まるで既得権益を持っているような態度でした。当然ながら、「お客さまをお迎えする」「召し上がっていただく」という姿勢も乏しく、店頭では、居眠りしてる店員さえいる始末です。

そんな姿勢や意識をどう変えていくのか?これが最初にやらなければならない大きな課題でした。まず実行したのは「パンチ・茶髪禁止令」です。全員で円陣を組み、「これからはパンチパーマと茶髪は禁止だ!」と大声で言ったことは今でも忘れられません。それ以降も、職人が感覚でやっていた仕事を数値化したり、国際基準の品質管理をするためにISOを取得したり、給与基準や評価の仕方まですべてを変えて行きました。

Q:相当な反発があったのでは?

予想以上にありましたね。当時の職場の状況を例えて言うなら、「水が濁った水槽」だったわけです。水を透明にするような共通ルールを作ったことで、水の濁りや、藻の影に隠れていた魚たちが、隠れようがなくなり、右往左往してしまうような状況になりました。そうなると自分が透明な水に慣れていくか、水槽から出ていくしかありません。実際に出て行ってしまう人も大勢いましたが、逆にやりがいを持つ人はもっと大勢いたのです。

Q:お父様とは「改革」についての相談はされましたか?

もちろん、事前に話はしています。ただ父は、僕がそこまで過激な改革をやるとは予想しておらず、父の想像をはるかに超えた大改革になったようです。また、父からすれば自分の腹心だった社員が次々とやめていくわけですから、「お前に人徳がないから、みんな辞めていくんだ」など、相当に厳しいことも言われましたし、とにかくたくさんぶつかりました。ですが決して改革の手を緩めることはなく、入社して5年ほどは、とにかく“水を綺麗にすること”を最優先で進めました。それは、社内だけじゃなく取引先も同じです。60年、80年と続いている取引先でも、値段と品質が合っていない仕入れ先はどんどん変えて行きましたし、メインバンクまで変えました。水を綺麗にすることで多くの人が去っていく一方、新卒採用も積極的に行いました。新しい魚をどんどん入れていって、水を綺麗にするだけでなく、雰囲気も変えていったわけです。

Q:就職希望が殺到する人気企業になった要因はどこにあると思いますか?

新卒社員の採用を本格的に始めたのはここ10年くらいですが、応募はピーク時で1万人以上も来ました。一番の要因は、社員の意識改革を行った成果と考えています。会社としてのルール、給与や評価の基準を誰から見ても明確にしたことで、現場の社員はみな、やりがいを持って仕事をしていますし、学生たちからも輝いて見えるのではないでしょうか。

それ以外の要因としては、会社説明会を“学生目線”で行っていることだと思います。船橋屋に入社する学生だけでなく、全ての学生が良い内定を取れるよう、社会に出てから使えるノウハウを教えたり、就活セミナーの様な形式で行っています。

Q:会社を変革する際に最も大切なことは?

一番大切なことは、「我々は何のために、この仕事をしているのか?」という意識を全員で共有することです。会社の経営理念やフィロソフィーは、それを支えるための土台です。一方で、多様化した人材を有機的につなげていく「インクルージョン組織」を創る必要があります。一昔前の「ダイバーシティ」という考え方は、多様化した人がバラバラに働いているようなイメージでしたが、それを統合していくのが「インクルージョン」です。

そこに必要なのは、「なぜ世の中にこの会社が存在するのか?」、「お客様がなぜ、他社ではなく船橋屋のくず餅を買うのか?」という問いに、社員一人ひとりがしっかりと答えを持つこと。船橋屋では、「高速で回るコマ」と呼んでいますが、高速で回ることができるコマは「軸」がしっかりしているから、止まって見えるほど安定しています。経営理念やフィロソフィーがその軸となり、組織を強い遠心力で有機的に絡めていくための戦略・戦術を考えることが、「会社を経営する」ということだと思います。

"日本の匠に尊敬と感謝の思いを込めて" - Grateful JAPAN

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