株式会社 エスクリ・代表取締役社長
渋谷 守浩(前編)/「商いとは『良い商品』を売ることに変わりはない」

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「商いとは『良い商品』を売ることに変わりはない」
M&Aで“家業”の建設業からブライダルへ

結婚に対する価値観の変化など、さまざまな要因から、婚姻数は減少傾向にある。それに伴ってブライダル業界の市場規模も縮小しているが、「株式会社 エスクリ」は逆風を感じさせない成長を続けている。2003年に設立し、駅から徒歩5分圏内の“都市型”という新しい形態の結婚式場を運営してきた企業だ。流行の移り変わりが激しい業界だが、二代目社長の渋谷守浩社長のもと次々と展開しているニーズを捉えたサービスが支持を得ている。

元を辿れば、渋谷社長はブライダル業界の出身ではない。運送業や材木業を営んできた「株式会社 渋谷」四代目として、建設業で成功を収め家業の躍進を支えてきた人物だ。そんな渋谷社長が、ブライダルに挑戦することになった転機は、結婚式場の内装を手掛けたことからエスクリの創業者で現会長である岩本博さんと出会い、M&Aの提案を受けたことだった。

独自の背景をもつ渋谷社長ならでは経営感覚は、どのように形成され、実を結んできたのか。高い営業目標を設定し「渋谷」の成長の礎を作った入社当初の出来事や、業績不振に陥ったエスクリの社長に就任し、わずか1年で会社の窮地を救った渋谷社長の手腕に迫りました。

渋谷 守浩さん インタビュー


――渋谷さんの家業である「株式会社 渋谷」の歴史をまずお聞かせいただけますか?

100年前にさかのぼると、大正2年に曽祖父が創業した飛脚業のような運送業から始まり、時代に合わせて材木業、建設業など業態を増やしてきた会社で、私で四代目です。法人化してからは50年ほど経ちますが、元々は木材をメインに扱う会社でした。木材のなかでも比較的特殊な「建具」という分野で、当時は和室が多く金属のサッシュもまだなかったので、襖や障子などの木製建具が家の扉、窓を守っていました。

三代目である父の時代から木造住宅を扱い始めてはいましたが、当時は木材がよく売れていたので、他の事業に注力しなくても成立していました。会社があるのは奈良県の桜井市という小さな町で、木材だけで年間5億円の売上があれば十分に“すごい企業”だと言えるエリアです。しかし、洋風のハウスメーカーのサッシュがメインになってきて、木製建具が次々に減っていきました。

――建築系の専門学校に通われた理由には、そうした時代背景があったのでしょうか?

多くの材木屋が倒産していくなかで、父とは「これからは木材よりも建設に力を入れるべきだ」と相談していました。ですから、私の入社後に建築業へと注力していくことはほとんど決まっていて、建設業に携わる以上は、経営者が建築士や施工管理技士の免許が必要になります。国家試験は非常に難しく合格率の低い難関ですが、免許を取得するという使命のため、建築系の夜間学校に進学することになりました。

――どうして夜間の学校を選ばれたのですか?

私の性格からして、大学に進学したら「絶対に遊んでしまう」という確信がありました。経営者の息子として、何をするべきか考えてみると、大学進学やそのまま就職する手もありましたが、免許を取ることに専念するために選んだのが専門学校の道でした。しかも、遊ばないよう「夜間にしよう」という自分と父の意見も一致しました。(笑)

そんな理由で選んだ夜間の学校でしたが、その時に見た風景が、自分の意識に大きな影響を与えてくれました。夜間に通う生徒たちは昼に働き学費を自分で稼いで、クタクタになりながら夜に勉強するわけですから、「サボる」という気持ちが全くありません。自ら学んで資格を取って起業しようとか、出世してお金を稼ごうという野心をもっていて、努力する力もハングリー精神も持っています。私も昼は住宅都市整備公団(現・UR都市機構)で仕事をしながら学校に通っていましたが、彼らと私の意識は全く違うものでした。汗だくで働いた後に着替える間も惜しんで真剣に勉強している人たちが並ぶ景色を見た時に、「シャワーを浴びてからゆっくり行こうかな」などと思っていた自分がどれだけぬるま湯に浸かり、人生を甘く見ていたのか気付かされました。そんな同期の仲間たちと肩を並べ、努力する姿勢やハングリー精神を学ばせてもらえたおかげで、自分も成長することができ、建築士や施工管理技士の免許を取得できたと思っています。

――入社当時の「渋谷」の業績や社内の印象はいかがでしたか?

建具材はライバル会社が多くないこともあり、材木屋として順調に成長しているという印象でした。ただ、歴史が長いもののまだまだ規模が小さかった。奈良県を出て大阪府の学校に通い、華やかな世界や大きな規模の建物を見てきたことで、私には会社を大きくしたいという野望が芽生えていました。既存の事業をカスタマイズして大きくする戦略を考えることは、自分に向いているという思いもあったので、祖父や父が大きくしてくれた会社を、せめて10億円企業にしようという目標を立てたのです。

ただ、当時の社員たちには、「地元ではそれなりに大きな企業に勤めて給料も十分にもらえている」という意識があり、自ら高い目標設定をするようなことはありませんでした。そんな雰囲気のなか、入ってきたばかりの社長の息子が「10億円企業にしよう」と言い出しても、「建具材の会社が10億も売れるわけがない」「そんなことを考えるから会社は倒産するんだ」と諭されるわけです。「それなら建具材以外のものを売ればいい」という発想は彼らから出てきません。仕事のやり方を変えようとしたことに社員からは反発が起こりましたが、私は新人社員とはいえ次期社長でもありますので、「自分の代ではこうしたいんだ」と伝えていく戦いを始めました。

それまでは注文が来た分を売るというスタイルで、1人5000万円ほど売り上げていました。しかし目標がなかったので、1億円というノルマを設定しようと提案しましたが、当時の上司たちは「絶対に売れない」と言うわけです。たしかに5000万円でも十分な数字だったかもしれませんが、私にはそのままではダメだという想いがあったので「1人で1億円を売ってみせるから、達成したら自分を専務にして欲しい」と申し出ました。専務からも「売れるなら売ってみろ、明日にでも代わってやる」という答えが返ってきたので、そこでメラメラと火がつきました。

当時は木材を自分で車に積んで配達していましたのでそれはもう大変でした。それでも必死になって、1年で1億1000万円ほど売り上げました。それを機に専務に昇格して陣頭指揮を取るようになり、数年後には10億円を達成しました。時間はかかりましたがそれからも徐々に成長し、現在では50億円規模の企業になっています。あの時に上司に食って掛かって、1億円という目標を達成していなかったら、いまの「渋谷」はありませんし、それは「エスクリ」とのM&Aも存在しなかったことになりますので、あの時がターニングポイントになったことは間違いありません。

――「エスクリ」とのM&Aに至った経緯について教えていただけますか?

会社が大きくなるにつれ、東京でも内装工事を手がけるようになり、「エスクリ」の内装も担当していました。その時に創業者で現会長の岩本博と出会い、年齢が近かったこともあり意気投合しました。私からすれば上場企業の社長を務めているすごい人だと思っていましたし、彼も関西から出てきて頑張っている奴だと評価してくれていたようです。

「渋谷」が大きくなった一方で、私には娘が3人いるのですが、女性の働き方改革が進んでいたとはいえ、女性が建設会社の跡取りになるというのはなかなかイメージするのが難しいものです。もちろん建設業でトップを目指す女性もいますが、私の娘たちは違うだろうなと。そんな時に、ある大手企業からM&Aの提案がありました。それも企業を未来まで存続させる手段の一つですし、自分がまだ若く「渋谷」が健全に経営できているタイミングだからこその話ですので、M&Aに応じようと考えました。「渋谷」は一度も赤字を出したことのない、地元の超優良企業でしたので、親戚中からのバッシングは相当なものでした。いま思えば親戚の言う通りで、あの時どうしてM&Aを決断したのか自分でもわかりません。

そのような経緯で「M&Aを受けて大手グループの一員になる」と岩本に話したところ、「それならエスクリと組まないか」という提案をもらいました。建設業の人間なので、ウェディングの会社であることには戸惑いましたが、岩本は“人たらし”なところがあって「業種はかまわない。渋谷守浩という人間が欲しいんだ」と口説き落とされました(笑)。大手企業の方が条件ははるかに良く、「エスクリ」はまだまだ上場したばかりの企業です。ただ、自分がその他大勢の1人として埋もれるよりも、自分が輝けるステージを選んだ方が「渋谷」と渋谷守浩のためになると思い、岩本の提案にのることを決めました。

その決断によって、売上が当時40億円ほどだった企業の社長から、代表権をもって330億円規模のグループ全体の仕事を扱える立場になりました。人生はどこでどう変わるかわかりませんね。まだまだ成功したとは言えませんが、辿っていくと一つ一つの決断が、面白い方向に自分を導いてくれたと思っています。

――M&Aを受けた時点で、社長に就任することは決まっていたのでしょうか?

全く確約されていたものではありませんでした。自分の経営力にはそれなりに自信がありましたし、その立ち位置に上っていかなくてはいけないという覚悟と目標はありましたが、まさかこれほど早くその役目が回ってくるとは思いもしませんでした。きっかけになったのは、創業から初めての下方修正という、上場企業にあってはならない業績不振です。いま会社を支えなければいけないという時に、中核となっていた幹部が辞めていき、会社も社員も自信を失い、金融機関からの目も厳しくなりました。

そんな不安だらけの会社を立て直すにあたって、最悪の状況にも耐えられそうな、“心臓に毛が生えている”人間として、副社長になっていた私に白羽の矢が立ちました。岩本から社長を交代して欲しいという話をもらった時に、「自分のやりたいようにやる。それでもいいなら賭けてくれ」と宣言して引き受けました。それから、人員の配置、目標設定の作り直しなど、組織の徹底的な作り直しを1年の間に進めたのです。もし2期連続となれば銀行は離れていきますから生きた心地はしませんでしたが、選出した本部長たちが覚悟を決めて働いてくれたこともあり、1年で上方修正までもっていくことができました。この時に、“異業種から来た人間”という目で見ていた世間や銀行が、ようやく私のことを認めてくれたように思います。

――異業種であるブライダル事業の経営にあたって難しさはありませんでしたか?

人は続けていれば学ぶもので、専門用語や、業界ならではのロジックを覚えるために2、3年という時間はかかりましたが、いまやドレスの仕入れからマーケティングまでわかるようになりました。抵抗なく入ることができたのは、祖父や父から、「商売は、家を売るのも水を売るのも車を売るのも、みんな基本は一緒だ」と教わっていたからです。売り方を知っていて、商品が良ければ業界を問わず売ることができます。商いとは、サービスなりモノなり、結局のところ何らかの商品を売ることに変わりはないのです。

<記者:平澤 尚威>

"日本の匠に尊敬と感謝の思いを込めて" - Grateful JAPAN

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