宮坂醸造株式会社・代表取締役社長
宮坂 直孝(前編)/日本酒の革新を支えた「7号酵母」発祥の蔵

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日本酒の革新を支えた「7号酵母」発祥の蔵
普通酒の質を高め続け、“季節の酒”を広めた老舗

酒造りにおいて、アルコール発酵させるために欠かせないのが、糖分をアルコールに変える「酵母」である。酵母の質は酒の香りや味わいに大きく影響するが、昔の酒造りでは、蔵に棲みついた酵母菌を使う“自然任せ”な製法が一般的なものだった。そこで明治時代後期、醸造業の技術進歩のために優れた蔵から酵母を収集し、全国の蔵で使えるよう販売する「協会系酵母」が誕生した。

長野県の代表的な日本酒として知られる「真澄」を造る「宮坂醸造株式会社」は、江戸前期に誕生した諏訪市の老舗酒造だ。350年を超える長い歴史を語るうえで、「真澄」という代表銘柄と、優秀な酵母が育つ環境を保ち続けた蔵で発見された「醸造協会酵母7号」(7号酵母)を切り離すことはできない。昭和21年、全国の鑑評会でトップ3を独占する快挙を成し遂げるほど優れた酒を生み出したこの酵母は、全国の酒造に頒布される7つ目の「きょうかい酵母」となった。当時の宮坂勝社長が快く無償提供した酵母は、発見から70年以上を経てなお、全国の6割ほどの酒蔵が使用している第一線の酵母だ。

勝氏の孫である現社長、宮坂直孝さんは、“7号発祥の蔵元”として「名に恥じる酒造りはできない」と気を引き締める。歴史のある蔵として良質な酒を届けることを第一に、“日本酒のある社会”をより良くしていこうという、穏やかでありながら力強い姿勢がうかがえる。

インタビュー前編は、7号酵母を生んだ宮坂醸造の歴史、そして“日常の酒”として品質を磨いてきた「真澄」という銘柄の魅力について伺った。ぜひご一読ください。

宮坂 直孝さん インタビュー


――まず、宮坂醸造と「真澄」の成り立ちを教えてください。

真澄は1662年創業で、長野県においても比較的歴史の長い酒造です。霧ヶ峰からの良質な水が豊富に湧き出る場所として江戸時代から知られ、必然的に造り酒屋が増え、この辺りの約半径300mに5軒の蔵が密集しています。諏訪はそれだけ酒造りに適している地域なのです。

350年を超える歴史のなかで、「真澄」という酒を真澄たらしめたのは、祖父の勝と父の和宏です。宮坂醸造は祖父の代までは小さく貧しい造り酒屋で、父親を病気で亡くした祖父は、20代前半で半ば強制的にこの蔵を継ぐことになりました。当時はなかなか酒が売れず、品質的にもいい酒造りはできていませんでしたが、継ぐ限りは潰すわけにはいかないと、品質面で注目される酒造りを目指したそうです。

そのために決断したのが、杜氏さんにご勇退いただいて、自分と歳が近く気の合う窪田千里という人物を起用することでした。20代前半の若者に蔵を仕切らせるなんてご法度でしたし、伸るか反るかの大博打だったと思います。ですが2人は良い酒を造っている日本中の蔵を巡り、造り方や、酒蔵の経営について教えてもらっては、蔵の設備や経営を改善していきました。特に広島県西条の加茂鶴酒造さんには親身にご指導いただき、そこで伝授していただいた技術をベースに酒造りを磨いていきました。

――「真澄」が躍進したきっかけである「7号酵母」が発見された経緯は?

昭和10年代に入ると国が主催する全国清酒鑑評会という権威ある品評会で成績が上がっていき、昭和18年には1位を受賞することができました。真澄という銘柄は無名でしたので「戦時中で良い酒が造れなかった蔵もあるし、まぐれだろう」と言われたそうです。ところが終戦翌年の21年、春と秋の品評会で真澄が1位から3位を独占するという快挙を達成しました。現在の品評会は順位をつけなくなりましたが、2回連続で3位まで独占したのは後にも先にも真澄だけです。

その結果を受け、「何か秘密があるはずだ」と多くの研究者が真澄の蔵に通ってくるようになりました。そして、優良酵母を全国から探し酒造メーカーへ販売する事業を展開していた国税庁醸造試験所の山田正一博士が、まったく新しい種類の酵母を蔵で発見し、これを「7号酵母」と名付けたのです。7号酵母の頒布が始まると、優れた酵母として瞬く間に全国に広まっていきました。7号酵母は無償で提供したもので、私たちは権利を有していません。販売にも携わっていませんので正確な数字はわかりませんが、多くの酵母が発見された現在でも、国が頒布している酵母の6割ほどのシェアを7号酵母が占めているそうです。

宣伝広告の資金がなく、営業にも労力を割けない小さな蔵にとって、品評会で素晴らしい成績を収めることは営業的に重要な意味があったと思います。ですが祖父は「それを営業に利用してはいけない」と主張し、品評会はあくまでも職人の技術を鍛える鍛錬の場だと考えていました。お客さまが毎日飲んでくれているのは、普通酒(当時の呼び方では二級酒)です。大吟醸を品評会に出品して培った技術で、普通酒の味を向上させることが自分たちの仕事であると、腕を磨いたことが真澄という酒の基盤を作りました。

――7号酵母はどのような性質をもった酵母ですか?

香りが立ち、華やかで、味がいい。そしてなにより、“安定していい酒が造れる”という特徴がありました。7号酵母が発見された当時の酒造りの技術を考えると、安全に作れるということは非常に重要です。酒造はかなりリスキーな商売であり、途中で発酵が止まったり、想定しなかった酒ができあがったりと、倒産に繋がるような失敗をする可能性もありました。だからこそ“間違いなくきちんとした酒になってくれる”7号酵母が全国を席巻したのです。この15年ほど日本酒業界で流行ってきた、強烈な香りを放つ酒は造れません。ですが吟醸感のある穏やかな香りがあり、味が良くて、香りとのバランスが取れていますので、どんな酒にも向いている酵母だと思います。

――すでに「真澄」ブランドを確立していた宮坂醸造に入社した当時、先代や先々代からはどのような教えを受けましたか?

大学卒業後にアメリカに2年留学し、百貨店に勤めてから蔵に戻ってきたのが20代後半でした。その頃は祖父も元気で、私たちと毎日出社して午前から利き酒をしていました。父も良質な酒造りを継続しながら、どちらかというとマーケティング的な工夫にも取り組んだ人で、大幅に販売数を伸ばしていました。祖父からは、品質面で一流の酒を造れという薫陶を毎日受けていましたし、「良い酒を造る!」という自負に溢れている会社でした。7号酵母発祥である真澄の名に恥じる酒造りや商売をしてはいけないという想いも常にもっていました。

――百貨店に勤務された経験は、造り酒屋での仕事に生きましたか?

アメリカ留学後に「もう少し修行しないと入社させない」と告げられ、新宿の伊勢丹に2年勤めることになりました。しかも酒売り場に配属されると思いきや、1年目は婦人服の担当になったのです。ファッションには全然興味もなかったのではじめは戸惑いましたが、精鋭が集まっている部署で研修を受けさせてもらえたことで非常に勉強になりました。

婦人服はシーズンが重要な商品ですから、日本酒メーカーももっと季節感を大切にした方がいいのではないかと思うようになりました。2年目で酒売り場に配属されると、やはり全く季節感がなく、婦人服から異動してきた人間にとっては、1年中売り場に変化がないため面白みがないのです。婦人服は早ければ1週間ごとに売り場に変化をつけ、「晴れた」「雨が降った」といった理由でもレイアウトを変えますからね。

そこで、私が宮坂醸造で最初に取り組んだことは、日本酒の世界に季節性を持ち込むということでした。季節感のある酒としては、しぼりたての新酒(加熱処理をしていない酒)が蔵にあるけれど、腐ったら大変だということで販売していない。ところが飲んでみるとそれまでの酒よりもはるかに美味しかったのです。すぐに「これを売ろう」と考え、夏の酒として生酒を販売するために試行錯誤しました。

――腐りかねない酒を販売するのはリスクがありますね。

生酒ですから、メーカー→問屋の倉庫→小売店の倉庫→消費者という従来の形態では流通できません。その時に思い当たったのが、伊勢丹でギフトの配送をしていたヤマト運輸というまだ小さかった運送会社でした。一緒に働いていた頃に、ヤマト運輸の方々が「『宅急便』というサービスを始めたんだよ」という話をしていたのを覚えていたのです。そこから宅急便でスピーディーにお届けする生酒配送サービスが実現しました。季節性のあるお酒がなかった当時、これが大変な人気を博しました。

いまでは季節の商品を扱わないメーカーが少ないくらい一般的になっていて、これはいい現象だと考えています。というのも、江戸時代の酒屋について書かれた文献を読んでみると、当時の酒には季節性があったのです。人々は秋に「ひやおろし」を飲み、冬には「しぼりたて」という具合に、季節を楽しんでいた。ところが大量生産、大量物流という時代には、腐るかもしれない酒、運送が難しい酒は減り、1年中同じような酒が売られるようになっていきました。つまり私たちは新しい文化を生み出したわけではなく、古くからの愉しみ方をもう一度蘇らせたようなものです。

――その後も7号酵母中心の酒造りが続いていったのでしょうか?

祖父の代は全て7号、父の代になると大吟醸では違う酵母を使っていたかもしれませんが、それでも主体は7号でした。それを“壊してしまった”のが私かもしれません。香りのある、華やかな酒がもてはやされ、「真澄さんももっと香りのあるお酒を造ってくれませんか」と取引先から言われることがありましたし、利き酒会では真澄だけが地味に感じてしまう。これはなんとかしなければならないと考えるようになりました。そして7号以外の酵母を使い始めた結果、ヒット商品がいくつか生まれてしまったのです。そこから真澄の酒も、7号と、それ以外の酵母が半々程度の比率になっていきました。

正直に言えば、焦りはありました。1990年代半ばから、日本酒業界全体の業績が下がるとともに、我が社の販売量も少しずつ減っていきました。そのなかで、「真澄を守らなくては」という意識が強かったのです。売上のために7号以外の酵母に手を出したことに関して、後悔はありませんが、私の不明の致すところだったかもしれません。

――7酵母発祥の蔵が、違う酵母を使うことへの反発はありませんでしたか?

業界のなかでも、「真澄はやっぱり7号だよ」と言ってくださった酒蔵の社長さんも多く、お酒の展示会で私のところにやって来て、「7号以外の酵母を使うんじゃない!!」と胸倉を掴んで怒る方もいました。そのくらい7号を愛してくださる方が、業界にも、消費者のなかにもいらしたと思います。葛藤はありましたが、7号発祥の蔵である誇りを再確認する出来事でもありました。

→宮坂 直孝(後編)を見る

<記者:平澤 尚威>

"日本の匠に尊敬と感謝の思いを込めて" - Grateful JAPAN

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