株式会社ベンチャーウイスキー 代表取締役社長
肥土 伊知郎(前編)/秩父が育む極上ウイスキー「イチローズモルト」

0Like&Share

Facebook

LINEで送る

秩父が育む極上ウイスキー「イチローズモルト」
廃棄寸前の原酒をきっかけに生まれた蒸溜所の躍進

ジャパニーズ・ウイスキーは、スコッチ、アイリッシュ、アメリカン、カナディアンと合わせ世界の5大ウイスキーに数えられる。「サントリー」や「ニッカウヰスキー」といった大手メーカーがスコッチウイスキーを手本に進化させた高品質のウイスキーを世に送り出し、さらに近年増加傾向にある小規模の蒸溜所がジャパニーズ・ウイスキーの個性をより際立たせ、世界からの高い評価を確立させた。こうした小規模蒸溜所の代表な存在が「ベンチャーウイスキー株式会社」だ。

代表取締役社長の肥土伊知郎(あくと・いちろう)さんが、当時まだ珍しかったウイスキー専門の会社を立ち上げたのは、家業の酒造メーカーが他社に譲渡されるという苦難がきっかけだった。400樽ものウイスキーの原酒が廃棄される寸前だったが、その原酒を守り世に送り出すため、2004年に株式会社ベンチャーウイスキーを創業した。この原酒を用いたウイスキー「イチローズモルト」は、創業から間もなく世界的なコンクールで日本一の称号を獲得。さらに一躍カリスマ的な人気を誇るブランドへと成長した。

鮮やかな飛躍を遂げた印象の強いイチローズモルトだが、肥土社長が自信作と言えるウイスキーを完成させるための“バー巡り”や、わずかな人数でスタートした秩父蒸溜所立ち上げ当初の地道な努力があった。肥土社長へのインタビュー前編は、ベンチャーウイスキーが誕生するまでのエピソードや、イチローズモルトの独特な味わいを生み出す蒸溜の秘訣を聞いた。ぜひご一読ください。

肥土 伊知郎さん インタビュー


――ベンチャーウイスキー設立以前のお話から伺います。まずは家業の造り酒屋ではなく「サントリー」に入社された経緯からお聞かせいただけますか?

入社の際に父と話していたことは、修行の場ではなく「一生勤めあげるつもりで働く」ということでした。山崎蒸溜所の製造現場で働きたいという想いがありましたが、当時は院卒以上でなければ理系の採用枠がないという状況だったため、文系枠で採用されました。ここでのマーケティングや営業の仕事は面白く勉強にもなりましたし、業績表彰をいただけるような成果を出すことができましたが、ものづくりがしたいという気持ちも強くなっていきました。

その頃に、父から「会社の経営状態が思わしくないので返ってきて欲しい」という渡りに船の要請があり、「ものづくりに携われる!」と家業に戻りました。家業は先祖代々、秩父で造り酒屋を営んでいて、昭和16年に羽生に本社工場を移した会社です。家業に戻ってから、私は日本酒や焼酎など全般の酒造りを担当しました。ウイスキーの規模は小さく、造っている社員たちさえも「ウチのウイスキーは飲みづらいんですよ」と自信がなさそうにしていました。

――実際に飲みづらいウイスキーだったのでしょうか?

そんなことはなくて、水割りで飲みやすいウイスキーが好まれる、当時の時代背景が影響していました。私がその原酒をテイスティングさせてもらうと、たしかにそれまでのウイスキーとは違うけれど、面白みのある味だと思えました。よく考えてみると、そのウイスキーは単一の蒸溜所で造る「シングルモルト」に分類されますので、本格的に造れば造るほど個性的なお酒になっていくのが特徴です。そのため造っている本人たちは、主流のウイスキーと違うからと「あまり良くない酒」という評価を下してしまっていました。

この原酒への評価を知るために私が始めたのは、日中の仕事を終えたあと、毎日のようにバーに持ち込んでバーテンダーさんの意見を聞くという生活でした。実際に飲んでいただくと「これは面白い!」という好意的な反応を各所でいただくことができました。バーテンダーさんの世界は横の繋がりが非常に強く、持ち込んだウイスキーをマスターに飲んでもらうと先輩、後輩、知人の店を次々に紹介してくれたのです。自分もバーでさまざまなウイスキーと出会うことで、この世界がいかに個性的で魅力のあるものなのかと気付かされました。

――そこからベンチャーウイスキーを立ち上げることになったきっかけは?

経営悪化により、2004年に会社が他社に譲渡されてしまいました。400樽の原酒が残されていましたが、当時の市場は右肩下がりで縮小していましたし、ウイスキーは熟成に時間がかかり、樽を保管する場所が必要です。新しいオーナーさんは、日本酒や焼酎など回転の速い商品には興味を示されましたが、期限を決めて引き取り手が見つからなければウイスキーの原酒は廃棄することを決断しました。

なかには20年近く熟成させていた原酒がいましたから、私にとってはハタチを迎える子供たちのようなものです。それが廃棄されるのは耐えられません。このウイスキーを世に出すために会社を立ち上げようと考えたことがベンチャーウイスキーの始まりでした。結果的には「笹の川酒造」という郡山の蔵元にお願いをして引き取っていただけたので、原酒を残すことができました。紆余曲折を経て完成した「イチローズモルト」でしたが、まったく無名のウイスキーで、税抜きで1万3500円という価格は、当時の市場ではかなり高価なものでした。

――そのウイスキーを売り出すためにどのような戦略を取りましたか?

ブランド名ではなく、味で評価してくれる人に飲んでもらわなければいけないと考えました。その時に思い浮かべたのが、以前にお会いしてきたバーテンダーさんたちでした。同じようにバーで商品を紹介することを日課にして、1日最低3軒のバーを回る日々を2年間続けたので、回ったお店は2000軒、飲んだお酒は6000杯を超えたと思います。

ウイスキーは好評でしたが、この事業がうまくいくかどうかは半々くらいの可能性だと思っていました。ですがバーの方々に「父から引き継いだこの原酒はいつかなくなってしまう。だから、自分でウイスキー蒸溜所を立ち上げたい」という、当時では途方もない夢を語ると、バーテンダーさんたちは「市場の売上が縮小しているけど、小さなメーカーががんばったら面白い」「ぜひウチにも商品を置かせてもらいます」と励ましの言葉をかけてくださいました。そのおかげで「うまくいくかもしれない」という気持ちが強くなり、家業が酒造りを営んできた秩父に、蒸溜所を設立しました。

――イチローズモルトのコンセプトとして意識したことは?

シングルモルトですから、イチローズモルト“らしさ”を追求しようと思いました。ただ、ウイスキーの“らしさ”が何なのかは、うまく説明できるものではないのです。例えばベンチャーウイスキーの秩父蒸溜所で造るシングルモルトには、“秩父らしさ”があります。10年ものであればほとんどは熟成期間なので、仕込むことに徹すれば、あとは寒暖差など秩父の環境が造り込んでくれたウイスキーの味わいが“らしさ”ということになります。いいものを造ろうと努力していれば、自ずとその土地らしい味わいに仕上がっていくものです。

――製造工程において「ミズナラ」という木材の発酵槽は大きな特徴ですか?

木の発酵槽を採用している蒸溜所は多いですし、新規の蒸溜所があえて木を選ぶというケースもありますが、一般的には清掃が容易で耐久性もあるステンレスのタンクが使われています。あえて木を選ぶのは、そこに棲みつく乳酸菌群がウイスキーに深みや複雑さを与えるからです。ただ、木材としては「ダグラスファー」や「オレゴンパイン」といった米マツ材が使われることがほとんどでしょう。オーク材であるミズナラを使っているウイスキーの蒸溜所は世界的にも“異端”といいますか、おそらく世界で秩父だけです。

ただ、ミズナラを使っているのは偶然で、木槽屋に勤める知人が、蒸溜所を立ち上げる話を聞きつけ、良いミズナラがあるから発酵槽を作らないかと提案してくれたことがきっかけです。「それは個性の一つになるかもしれない」と考えて導入しました。ウイスキーの研究者によれば、乳酸菌は非常に種類が多く、米マツ材のようなマイルドな樹種を好む菌もいれば、ミズナラのようなタンニンが多い樹種を好む菌もいるので、それが個性的な味を生み出すかもしれないということでした。比較検証はできていませんが、個性に繋がればと思い大切に使っています。

――その他に、個性を生み出している要素はありますか?

秩父蒸溜所は手作業が多く、バラつきはあるかもしれませんが、そのかわりに画一的ではありません。スタッフ全員に共通するのは「ベストのウイスキーを造ろう」という強い想いです。クラフトマンシップといえる姿勢が、ハイクオリティなものづくりにつながっていると思っています。

なかでも大麦を収穫して、それを蒸溜所で浸漬、発芽、乾燥という工程には最も手がかかります。非常に手間がかかるため「モルトスター」という製麦業者から輸入してウイスキーやビールが造られることが多いのですが、一部地元産の大麦に限っては、自分たちで作業しています。「マッシュタン」という仕込み槽は機械による自動的な作業が一般的ですが手作業で撹拌していますし、蒸溜においても人間の官能を頼りに香りを確かめるなど、さまざまな場面で人の手をかけています。

――ベンチャーウイスキーは順風満帆というイメージがありますが、設立当初に苦労されたことは?

完成した蒸溜所を見た時はうれしさよりも「これは大変だぞ」という気持ちが本音でした(笑)。軽井沢蒸溜所などで研修を受け知識、技術は身に付けましたが、本当にいいウイスキーを造れるだろうかと常に自分に問いかけていました。

小規模な蒸溜所が増えてきた近年でこそ大きな部類になってきましたが、スタートした頃の従業員は3人でした。仕込みが始まってしまえば酒造りはこちらの都合は関係なく進んでいきますから、休みもなくよく働いていたなと思います。秩父蒸溜所で初めての原酒が完成した時も、感動を味わっている余裕もありませんでした。それでも上手くに処理できるよう工夫を重ね、それを一つ一つ解決しながら今の形を作ってくることができました。

<記者:平澤 尚威>

"日本の匠に尊敬と感謝の思いを込めて" - Grateful JAPAN

フォローしてSNSで最新情報をチェック >>

Facebook

LINEで送る