理化電子株式会社 代表取締役社長
戸田 泰子(前編)/会社存続のため27歳で決断した社長就任

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会社存続のため27歳で決断した社長就任
“堅実なものづくり企業”に変革をもたらす三代目

理化電子株式会社の三代目である戸田泰子社長が経営を継いだのは2015年、27歳の時だった。いずれは跡を継ぐことを考えていたが、「会社を存続させるためには自分が社長になるしかない」という予期せぬ事態が訪れたのだという。突然のことだったが、会社の未来と社員たちを守るため、迷うことなく社長就任を決断した。

理化電子は、半導体検査に使用される精密な電子部品を製造・販売する企業だ。社員たちが堅実なものづくりで培ってきた技術力を武器に、戸田社長は新しい時代に活躍できる企業への転換を図る。

戸田社長へのインタビュー前編は、「出る杭は打たれる」日本とは真逆の「自分をアピールしなければ潰される」という文化を学んだ留学経験や、理化電子の強み、そして社長就任を決意した瞬間について、若きリーダーに伺った。ぜひご一読ください。

戸田 泰子さん インタビュー


――まず「理化電子」の事業内容について教えていただけますか?

簡単に説明しますと、みなさんがお持ちのスマートフォンやパソコンなどの電子デバイスには、いくつかのICチップが乗った基盤が搭載されていて、チップの一つ一つがカメラのセンサーやメモリ、バッテリーなどを駆動させる役割を担っています。そのなかの一つでも不具合が起きただけで、一台全部が不良品ということになり損失が大きくなってしまいますし、返品やクレームに繋がればメーカーの信用問題にも関わってきます。それを防ぐには、全てのチップが正常に動作するという、“極めて基本的なこと”が大事です。各メーカーは正常に作動するようチップの検査をしていて、その時に私たちの検査治具が使われます。

――検査において治具はどのような役割を果たしているのでしょうか?

検査には大きな装置が使われますが、私たちが作っているのは、チップに触れる「プローブ」と呼ばれる小さな針がメインで、チップの一つ一つに電気を通して、正常か異常かを判断するのが役割です。異常な信号が返ってきたチップは不良品として弾かれていきます。

プローブの性能において大事なことは、検査する対象物によって流す電気の量や、使用する環境が全く異なるため、それに耐えられるかどうかです。例えば、車まわりに使われる半導体ですと、エンジンの近くに使われる場合は温度の変化が大きく、そういった環境下でも問題なく動かなくてはいけません。検査はそれと同じ環境を作って行われるので、ある検査では凍ったり溶けたりしないように、また別の検査では高周波に耐えられるよう、さまざまなプローブの針が作られています。チップの用途によって、求められるパラメータが細かく設定されているので、それに適した検査治具を作るのが理化電子の仕事です。

「このパラメータでお願いします」という要望に応じて作るのが基本ですが、これからの時代、私たちはもっと先をいかなくてはいけません。例えば通信が4Gから5Gに移行しようとしているなかで、5Gになった時には「このようなテストが必要になる」ということが予測できますので、それに対応できる製品を先回りして開発しなければいけません。現在は特にスピード感が求められているので、「話が浮上してから開発します」では遅いんです。通信やあらゆる機器が高度化していくなかでは、いかに早く情報をキャッチして開発できるが大事になります。

――社長就任以前の経歴について、高校時代に留学をご経験されたそうですが、そこで経験したことや学んだことを教えていただけますか?

私が幼い頃から、理化電子はすでに海外に拠点をもっていて、グローバルな事業展開をしていました。自宅に海外からのお客さまがいらっしゃるような環境だったので、海外の方たちと接することへの抵抗感はありませんでした。高校進学の際に、海外の大学で医学系領域を学びたいと思うようになり、それなら高校のうちから海外留学をしようと決めました。

高校3年間はカナダに1年半、アメリカに半年間留学をして、日本で1年を過ごしました。中学校の英語の授業は苦手でしたが生活のなかで語学は身に付いたので、後から振り返ると、文法にフォーカスする学び方が自分に合っていなかったんだなと思います。語学よりも大きな学びだったのが、自分をアピールしない限り潰されていく世界だという、文化の違いです。“出る杭は打たれる”日本に違和感をもっていたことも、海外に行きたいと思うきっかけだったのですが、実際は想像以上に自分のタレントをアピールすることが必要でした。日本のように謙遜していたら、誰にも知られずに終わってしまいます。

海外の人は少しでもできることがあったら、レベルはともかくアピールします。ピアノを例にすると、日本では周りの上手な人と比較して「バイエルしか弾けないからピアノが弾けるなんて言えない」と感じてしまうけど、バイエルだろうと「ピアノが弾ける!」と主張します。そこは文化が大きく違うところですし、厳しい目で見るのではなく“伸び伸びとお互いを認め合う環境”に魅力を感じました。なので、ダンスや歌などの特技を披露する場では「ソーラン節をやろう」と周囲に声をかけて法被を着てソーラン節を披露したり、屋台を出すような機会には着物で接客したりとアピールしましたし、それが好評でしたね。

――海外の方々とコミュニケーションを取るうえでの基礎を作ることができたんですね。

「全てを自分でやらなければいけない」ところも留学で得られた貴重な経験でした。日本の高校生はまだまだ親に守られている存在ですが、海外では学校の履修も書類の作成も、洗濯など生活のことも自分でやらなくてはいけません。休みの時期には飛行機を自分で取って帰国するので、夏休み前になると台湾や香港の子が「日本に行きたいから一緒に帰っていい?」と声をかけてくれて、日本で遊んでから国に帰るような過ごし方が当たり前でした。いま思うと、それを高校時代にやっていたのは普通のことではありませんし、その環境を与えてもらったのはありがたいことです。先代である父もそういった経験をしてくることを望んでいたと思います。私もその子たちは今でもフットワークが軽いですし、「やりたいことがあれば、どの国でも行けばいい」という感覚なので、お互いに「世界が広いな」と感じています。

よく“バイリンガル”と言いますが、私は言語よりも文化を理解していること、“バイカルチュラル”が大事だと思っています。仮に言葉が通じなくても、文化を理解しているだけで通じるものがあります。そこは私も、英語圏ではない友人が山ほどいたので、ドイツ人でも、フランス人でも、「だいたいこんな感じ」ということがわかるようになりました。いざドイツに行ったとすると、あまり英語が通じないんですが、「ドイツ人が大事にしていること」がなんとなくわかるので、それだけでいろいろなことがスムーズに進められます。

――留学も経験し異なる分野を目指していたなかで、家業を継ぐことを決意されたきっかけは?

家業を継ぐことを意識したのは大学3年くらいの頃でした。日本で大学進学して、宗教哲学を学んでいましたが、日本に帰ってからも諦めていなくて、学士編入で海外に行くことも考えていたんです。ですが、次第に「ビジネスの世界もおもしろそうだな」と思うようになり、路線を変更した時点で「ビジネスの世界に進む=理化電子を継ぐ」という意識に自然と変わっていきました。

まずはファーストキャリアとして、コンサルティングの会社に勤めました。理化電子に貢献できるようになにかを携えてから転職しようと考えていましたが、「海外が手薄で必要だから」という父の要請で、3年弱で理化電子に入社しました。

――理化電子に入社して驚いたことなどありますか?

カルチャーショックの連続でした。前職では全てパソコンで作業していたこと、例えばノートを1冊買うための伝票も手書きで提出するという文化だったので驚きました。「効率的できれいに資料を作れること」が価値だとされている業界から来たので、「ものづくり」が価値であり資料は二の次という業界との違いを痛感しました。日本は中小企業が99%程度を占めているので、大半が今でもそのような環境だろうと思います。ですが、事務的な作業を効率化したらさらにものづくりに割ける時間が増える、ということなので、逆に希望をもつこともできました。

――入社後に取り組まれた改革は?

効率化するためにペーパーレスなどの仕組みを変えたほか、ブランディングにも取り組みました。見せ方が大事だということは痛感していたのですが、理化電子は典型的な“堅実な中小ものづくり企業”という印象で、作るものは確実だけど、それをどう見せるかが全然できていませんでした。海外拠点が各地にあるのに、名刺のデザインやHPのドメインが違ったりだとか、ロゴの色味が落ち着いた色だったりすごくビビッドだったりと、全く別会社のようだったので、色味を合わせて統一感を出すなど細かいところまで直していきました。

同時に、海外との営業業務の窓口も務めていました。価格や納期の調整、お客さまからの技術的な要求を社員と共有して、最適な解を生み出していく仕事です。技術のことはわからなくても、お客さまからの伝え方のニュアンスや、どういった思考や文化が背景にあって言っていることなのかは、ただの翻訳では伝わらないものです。日本にいる技術者たちにプラスアルファの説明を加えることで、海外の各グループ会社の担当営業たちとのハブ的な役割を務められたことは大きな意義があったと思っています。

――27歳で社長に就任されたきっかけは?

父が退任することになり、誰かが後を継がなくてはいけないという状況で、その説明をするために、取引のある各銀行を私が回ったのですが、当時は理化電子の業績があまりよくなかったため、いつ取引を打ち切られてもおかしくないような弱い立場で、会社の存続すら危うい状況でした。

メインで取引のあった銀行で支社長さんとお話していた時に、「僕は、あなたが継ぐなら応援します」と言ってくれたのです。当時は全く予期していなかったことでしたが、周囲に了解を取る間もなく「私がやります」と答えました。それだけまっすぐ目を見て「あなただったら」と言ってもらえているのに、同じ熱量で応えないわけにはいきません。オーナー企業なので、銀行側からしても、同族の私が継ぐことで希望をもてると感じてくださったのだと思います。銀行の会議室に入る時には全くそんなことになると思ってもみなかったのに、部屋を出てきたら社長に就任することになっていました(笑)。その一瞬の出来事ですべてが変わりましたし、そこで決断ができたことは間違いではなかったと思っています。

<記者:平澤 尚威>

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