日本の花火職人/株式会社ホソヤエンタープライズ代表取締役社長
細谷圭二

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一瞬の輝きのために、技術と情熱を注ぐ。
花火造りは人生のようなもの。

「真夏の夜のエンターテイメント」と聞けば、日本人なら誰でも「花火」を想像することだろう。

一度見れば、誰もがその美しさと華やかさに酔いしれ、歓喜の声を上げる。そんな風情ある魅力を持つ花火だが、その裏では、「火薬」という危険物を取り扱う張り詰めた環境下で、数千~数万時間にもおよぶ準備期間を経、命に関わる危険と隣り合わせの現場で戦っている人々がいることを想像できるだろうか。花火職人とはそんな仕事である。

日本の花火の歴史は、種子島に火薬が伝来した1543年(天文12年)以降、1613年(慶長18年)にイギリス国王の使者ジョンセリスが駿府城を尋ねた際、持参の花火を見せたのが始まりという説が最も有力で、日本で最初に花火を見た人物は、かの徳川家康とされている。花火を鑑賞する際のおなじみの掛け声である「たまやー!かぎやー!」の、「玉屋」と「鍵屋」の創業も、江戸時代の初期。この「鍵屋」の流れを汲み、創業100年以上の歴史と、日本有数の実績を持つ老舗の花火企業。それが、ホソヤエンタープライズだ。

その4代目を継承する細谷圭二氏の言葉には、花火職人としての厳しさ、誰より花火の魅力に惹かれ、純粋に愛する気持ち、そして何よりも、エンターテイナーとして「人を感動させたい」という強い探究心が感じられた。安全な場所から花火大会を鑑賞できる立場の筆者にとって、これまで知り得なかった衝撃的な話もあった。毎年花火大会に足を運ばれる方も運ばれたことが無い方も、この記事を通して、さらに花火の魅力を感じ、現地でその魅力を体感していただきたい。

細谷 圭二氏インタビュー


Q:花火職人になったきっかけを教えてください

純粋に花火そのものの魅力に惹かれて、この世界に入った。
実家が明治時代から三代継承されている花火職人の家系だということは、幼少のころから理解していたが、実は大学を卒業するまで「自分が家業を継ぐ」という意思はまったくなかった。その証拠に?大学では経済学部。笑

自分が初めて花火と出会ったのは、22歳の時。親父の手伝いで、初めて打ち上げ花火の現場に連れていかれたことがきっかけで、間近で打ち上げに立ち会った。でっかい花火の玉を筒口に入れたら、「すぐ離れろ。ぐずぐずしていると怪我するぞ!」と言われ、打ち上げてから数秒後、轟音と共に夜空に炸裂する大輪の花。そして、かなたから押し寄せる怒濤のような歓声を聞いた時、興奮で体中が震えた。なぜ、今までこんな面白いことを教えてくれなかったのか?と、本気で親父を恨んだ。今風の言葉で言えば、その瞬間にハマッてしまったということ。そう、たった一発の花火で。

Q:ホソヤエンタープライズの歴史、花火の歴史を教えてください

創業は明治39年(1906年)。明治後期に火薬取締法が公布され、初代細谷喜一が警視総監より許可を受け細谷花火店(屋号は藤棚)として、東京西多摩郡草花村(現あきる野市草花)に創業したのが始まり。創業前からも料亭を営みながら花火製造を行っていたが、それまでは法律そのものが無かった。

日本の花火の歴史は鉄砲&火薬が伝来した、江戸時代の初期にさかのぼり、最初は時報の役割として使われていた。あまり知られていないことだが、うちは花火のかけ声としておなじみの「たまやー!かぎやー!」の鍵屋の流れを継いでいる。鍵屋は万治2年(1659年)の創業で、江戸で玩具花火の製造を始め、その後13代も続く花火屋の老舗で、その跡取りは、代々「篠原与平」の名を襲名していた。11代目の頃から、うちから鍵屋へ打ち上げ花火を納品するようになった。しかし鍵屋の12代目が、花火よりも踊りに熱中してしまった影響で、花火職人が大勢やめてしまい、なんとその後、「鍵屋」の暖簾までを売ってしまった。

うちにも「鍵屋」の暖簾を買わないか、と声がかかったようだが、「細谷」の屋号でやっていたため、他店が買い取った。鍵屋の屋号は現在でも残っているが、残念なことに自社では花火の製造を行っていない。そうした背景から、うちが享保18年(1733年)から続く、両国川開き花火(現在の隅田川花火大会)の打ち上げを引き継ぎ、鍵屋の残された職人達も引き受けた。 昭和4年以降の隅田川花火大会は、それまでやっていた「鍵屋」ではなく、「細谷花火店」として打ち上げを行うようになった。現在では、玉屋の流れを継ぐ、丸玉屋小勝煙火店とうちの2社共同で、隅田川花火大会や、東京湾花火大会を担当している。だから、花火を見るときには「たまやー!かぎやー!」ではなく、「たまやー!ほそやー!」と言って欲しい。笑

Q:現在、花火屋さんはどれくらいありますか?

現在、メーカーとして花火の製造・販売までを行っている花火屋は、日本国内に60~70社程度。鍵屋のようにメーカーではなく、花火を仕入れて打ち上げのみを請け負う会社なども合わせると、300社程度だと思う。

Q:花火をどこで造っていますか?

花火の製造は、法律が無かった当時はそれこそ、普通の民家や長屋のような場所で造られていた。そんな状況から、火事や爆発事故が多発して、江戸を所払い(神田より先に強制的に退去を命じられる)になる職人も多かった。

そんな職人達が、いろんな地域に出向いて、花火を造って売ったり、技術を伝授してはお金を稼ぐ、いわゆる周り職人となったことで、各地に花火の技術が広まっていった。 法施行後は、危険物取り扱いによる、周辺環境への配慮から、ほとんどが製造を地方で行っている。うちも、もともとは東京都あきる野市で製造していたが、近隣に住宅が密集してきたことから、すべて南伊豆に移転した。

Q:花火の種類について教えてください

打ち上げ技術が無かった時代には、噴出花火(今でいうドラゴンのようなもの)が主流だったが、現在は打ち上げ花火がほとんど。花火の種類は?と聞かれれば、それは無限にあると言っていい。毎年隅田川、大曲や土浦などで開催される花火競技会に出場しているが、いつも新しく発明した花火の技術を盛り込んだ作品を出している。都道府県ごとに様々な特色があり、各地域の技術や趣向を見るのが、とても刺激的だ。

Q:花火の技術評価は、どのようにして行われますか?

日本の花火競技会で高い評価を受けるのは、多重芯と呼ばれる技術。簡単に言うと円の中に、更に小さい丸が幾層にも広がる花火。三重芯、四重芯、今では最大で五重芯までだが、八重芯を作れれば花火職人として一流と呼ばれる。花火は、その職人の趣味や性格でいか様にも造ることができるが、人を感動させる花火は、やはり職人としての丁寧さや、きめ細かさ、几帳面さが重要で、それが花火のクオリティとして現れる。

うちは、昭和34年に長野県の青木儀作氏を中心に結成された、超一流の花火職人26名(細谷氏の父を含む)による、花火の最高技術集団、日本煙火芸術協会(Japan Fireworks Artists Association)の事務局を務めている。各地で行われるコンクールで優勝し、新しい創作物や独特の技術を保持している職人が集まり、最も得意とする花火を持ち寄って、各地で得意の技能玉、創作品を披露し、毎年内閣総理大臣賞を獲っている。

Q:お客さんが喜ぶのは、どんな花火ですか?

多重芯の大玉花火や、型物と呼ばれる創造的な花火が多くの人に喜ばれている。
最近では単発の打ち上げ花火だけではなく、スターマインという連続発射打ちの技術と、音楽とをシンクロさせたような、演出を効かせたものにより大きな歓声が集まる。また、都内ではなかなかできないが、新潟長岡の花火大会のように、2キロにわたって噴出するような、ワイドスケールの花火も人気が高い。

東京のような都心で行う演出には、地方にはできない工夫がある。たとえば、今年も95万人を動員した、隅田川花火大会は川面に映る花火の色や、周囲の高層ビルへの反射も計算に入れて、実際に打ち上げている2万発の花火を、4万発にも6万発にも見せることが出来る。東京湾花火大会のステージも、360度どこからでも鑑賞できる素晴らしい環境だと思う。前述の通り、うちは丸玉屋と共同で、2万発の隅田川花火大会、1.2万発の東京湾花火大会を半分づつ担当しているが、1社だけで担当している花火大会は基本の色数が限られるからため、正直なところ見ごたえに欠けると思う。競技会の加盟会社と協力して、強みを出し合い、今で言うジョイントベンチャーのような形で、イベント全体をアレンジすることが、望ましいと思う。

Q:一発の花火を造るのには、どれくらいの時間とコストがかかりますか?

玉の大きさによって大きく異なるが、最も大きい三尺玉だと全工程で半年間かかる。値段は寿司屋ではないが時価になる。我々は個人に対して販売はできないため、花火大会の主催者と、会場の環境や様々な状況を考慮して値段を決める。三尺玉だと玉の重量は280キロにもなり、原価だけでも数十万円、また打ち上げには2トンクラスの台が必要になるため、運搬に必要なトラック、人などの経費も考えると、数百万円のコストが掛かる。職人の立場から言わせてもらうと、三尺玉のような大物を花火大会に出すときは、「娘を嫁に出す」ような気持ちになる。製造期間だけで半年間もかかるうえ、大きいものは一年間ほど寝かした方が「座り」が良くなり、綺麗な華を咲かせるなんてことも言われるため、思いっきり情が入ってしまう。小さい玉では一人の職人が1日で4~5発程度作れるものもあるが、一度に並行して複数の球を造るのではなく、基本は一発一発、丁寧に造っていく。

Q:花火職人になるための修業について教えてください

玉貼り3年、星掛け5年という言葉がある。修行に入ってすぐにやらされるのは、玉貼りというクラフト紙にのりを付けた紙を、花火の周りに何重にも張っていく作業。花火屋では女性達を中心に行うことが多く、貼り方は縦貼り、横貼り、袈裟貼りなど、様々あるが、丈夫にそして均等に、絶対に花火の中心に水分が入らないように、1枚1枚乾燥させながら丁寧に貼っていく。まずはそれを手早くこなせるようになってから、星掛けといって、花火に入れる星を造る作業をやる。その後に玉込めといった、花火造りに重要な工程をやらせてもらえるようになっていく。

花火は玉の外に打ち上げ用の火薬を取り付け、心臓部に達している導火線(親道)に火をつけてから打ち上げる。着火すると、3~4秒後に爆発するように設定されているが、導火線が痛んでいると「黒玉」と言って、開花せずに不発で落ちてきてしまうし、大きい玉になると、打ち上げ用の火薬の爆発に耐えられる硬さに仕上がっていないと、筒の中で爆発したりしてしまう。それぞれの重要性をきちんと理解させるためにも、一つの工程を何年もやらせる。

Q:1人前になるまでにはどのくらいの時間が掛かりますか?

やはり最低でも10年かかる。簡単な作業は一切ないし、玉貼り、星掛け、玉込め、すべての工程を完璧にこなせる職人でなければ、一つの花火を造ることはできない。三尺玉のような大作を造りたければ、更に厳しく長い年月の修行が必要。花火職人なら誰でも大きい玉に憧れるし、自分も三尺玉(直径90cm)をどうしても作りたくて、三尺玉の名人といわれる新潟県加茂市の阿部煙火工業(株)阿部正平氏に弟子入りをお願いした。

花火の製造技術は門外不出なため、おいそれとは同業者の4代目を弟子にはしない。花火大会で会うたびに、弟子入り志願しては断られ、それを数年繰り返し、粘りに粘ってようやく弟子にしてもらった。3年間の新潟での修行は、自社でやっていた時の何倍も厳しかった。賞なんかもらって、天狗になっていたその鼻を見事にへし折られ、技と礼節をたたき込まれた。今思えば、その厳しさこそが親心だったと思う。おかげで初心に返って一からやり直そうって目が覚めた。阿部正平師匠が「自分で一から造り上げた花火で納得のいったものは、これまでの職人人生で1~2発くらいだ」と言ったが、その言葉に強いショックを受けたし、やはり本当に奥が深いものだと、再認識した。

Q:“満足の一発”とは?

常に納得のいくものを作ろうとしているが、たまに自分でも特に良い感触が残るときがある。ただ、お客さんに見てもらってなんぼの世界であるため、その良し悪しは自分では評価ができないし、最後に決めるのは、お客さんだと思っている。隅田川花火大会のようなビルや住宅の密集地では、お客さんとの安全な距離「保安距離」が、150~200メートルくらいと近いため、花火を打ち上げたあとにお客さんの歓声が自分にまで届く。その声を聞いてはじめて「満足の一発」だったのだということが自覚出来る。

Q:昔と現在で、修行の仕方に変化はありますか?

自分の修行時代は「超」がつく縦社会で、仕事中に蹴りや拳骨が飛んでくるのは当たり前。基本叩かれて覚えた。花火製造所での失敗や事故は、下手をすると直接死につながり、自分だけでなく他人をも巻き込んでしまう。危険なものを扱っているのだから、厳しいのは当たり前だという自覚が全員にあった。そんな緊張感があってか、職人は仕事中みんな無口で、修行中の小僧は「先輩の背中を見て覚えろ!」といった文化だった。

今もそんな緊張感が前提にはあるが、今の教育はそれとは少し違い、きちんとコミュニケーションを取って教えている。その作業の中で考えられる危険、その作業工程を踏む意味など、論理的にも理解できるように教えていく。その背景として、今の若者は理不尽な縦社会とその意義を知らないし、それだけに殴る・蹴るなんてことはできない。また、強い口調で言うと、すぐに委縮したり、凹んでしまうため、「怒るより、励ます」といったコミュニケーションに変わってきている。自ら、「自分は褒められて伸びるタイプなのです」なんて事をいう者もいるくらいです。(苦笑)

時代と共に、教育の在り方・コミュニケーションのあり方も変わってしかるべきだと思う反面、危険な仕事をしている以上、厳しさや緊張感は必要で、先輩とは友達同士では居られない、ということだけは理解させるようにしている。基本は自分から一人前になれるように努力をしなければ、だれも認めてはくれないし、そこに気づかない者は、自分から去っていく。一人前の職人を育てる環境としてはそれくらいでちょうど良いと考えている。

Q:一人前になるためのハードルは?

入門して、一人前になるまで頑張れるのはだいたい半分くらい。辞める者は、下積みの仕事がつまらないと感じたり、最大の繁忙期である夏に休みが取れない状況に耐えきれず、3年以内に辞めてしまう。我々は人を楽しませるのが仕事で、繁忙期はある程度決まっているため、そこに向けて最大限の努力と情熱を持って取り組まなければならない。それを踏まえず、自分が純粋に観客になってしまいたいと考えた瞬間、そこで花火職人ではなくなってしまう。

今は機械(電気点火器)を使って、遠隔操作で打ち上げる場合が多いが、昔は人間の手で玉を筒に落として(早打方式)、花火を上げていた。筒の上でまごまごしていると人間の手など、簡単にぶっ飛ばされてしまうため、上がった花火を鑑賞している暇などなく、筒口だけを見ていろと言われていた。目の前で爆音を立てて上がっていく花火を、何千発、何万発と繰り返して、その間、絶えず火の粉や玉の燃えカスが空から降ってくる。打ち上げ現場はまさに戦場で、戦いが終わるとしばらく難聴にもなる。そんな職人でしか絶対に味わえない世界を貴重な経験と感じ、ある種の憧れのような思いを持てる者でなければ、務まらない。

Q:日本の花火が高い評価を受けている理由を教えてください

花火は殆どの工程が機械化されていないため、本当の意味で職人の経験と技術が試される数少ない分野。その中で、日本人のモノづくりへの強いこだわり、手先の器用さ、技術のきめ細かさが高い評価を受けているのだと思うし、海外では絶対に真似ができないものだと強い自負がある。それは、日本人の素晴らしさであって、今後も継承していかなければならないと認識している。

Q:エンターテイメントビジネスとしての今後の展望は?

エンターテイメントだと言えば、アメリカが先駆者だと思うが、それの真似をしていても二番煎じになってしまう。海外では多重芯などの細かい技術はあまりウケないなど、国内と海外でウケるものには違いがあるし、花火大会のために、人が集まるのは世界中で日本だけ。海外でも花火のためだけに人が集まる、そんなエンターテイメントを花火で実現して行きたい!そのためには、日本人だからできること、日本人でしかできないことを追求して、海外での活動に20年・30年と歴史を持たせていくことが重要だと考えている。

Q:花火職人の魅力について教えてください

祖父である二代目の細谷政夫が、「花火とは人生のようなものだ!」と言っていた。自分もそう思う。この世に生まれ、育ち、登り、きれいな花を咲かせて、最後には散っていく。その一瞬の輝きを華やかにするために、長い時間を掛けて技術を積み上げ、一切の手抜きをせずに情熱を注ぐ。妥協して、手を抜いてしまえば、誰の記憶にも残らない、ちっぽけな花しか咲かせることはできない。

まして、花火は基本的なマニュアルはあるが、全てが職人の頭の中にある。華やかにできるかどうかは、すべて自分次第だから。まさに人生そのものだと感じることができるのが一番の魅力だ。

Q:これから一人前を目指す、若い世代へ一言お願いします!

「自分探し」
という言葉をよく聞く。

他人ではない自分を、
よそへ探しに行っても、
見つかりはしない。

自分を直視して、
好きなことに素直に、
これしかない!という覚悟を持って、それをやり続けてほしい!

"日本の匠に尊敬と感謝の思いを込めて" - Grateful JAPAN

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